第18話

 希未は部屋着から私服に着替えてすぐ、部屋を出た。スーツのクリーニングを受け取ったついでに、スーパーマーケットで買い物をした。

 日常的な買い物の他――いくら志乃が夕飯を作ってくれるとはいえ、何ももてなさないわけにはいかない。缶のサングリアとペットボトル入りのミルクティー、そして少し値の張るチョコレートも購入した。

 帰宅後は部屋の掃除と片付けを済ませ、わざわざ化粧を直した頃には午後七時になっていた。

 希未はソワソワしていると、携帯電話の画面が点灯した。ホテルを出たと、志乃からメッセージアプリで連絡を貰った。

 志乃も買い物をしたのだろう。午後七時四十五分頃、インターホンが鳴った。


「お、お疲れさまです」

「のんちゃん、こんばんは」


 この賃貸マンションにエントランスのオートロックは無い。扉を開けると、にこやかな様子の志乃が立っていた。仕事用の鞄を肩に掛け、手にはエコバッグと何やら新聞紙の包みを持っている。

 昼間の電話と違い、怒っているわけではなさそうだ。希未はひとまず安心した。


「迷いませんでしたか?」

「ええ。ホテルから近くて、いいわね」


 スリッパを差し出し、志乃を部屋に上げる。

 希未がこの部屋に住むようになり、三年になる。当時は1Kの間取りが理想だったが、職場に近いことを最も重視して選び、一階部分のワンルームで妥協した。

 とはいえ、現状は特に不満の無い生活が送れている。八畳の広さがあり、トイレと風呂は別。近隣とのトラブルも無い。


「なんていうか……生活感あるわね」


 部屋を見渡した志乃が、ぽつりと漏らす。

 希未は整理をしたものの、書類や健康器具等、確かに『物』に囲まれていると思った。落ち着いた志乃の部屋とは、正反対だ。

 片付けはどちらかというと苦手だと、自覚している。


「そういう性格なんですよ……。ていうか、恥ずかしいんでジロジロ見ないでください」

「ふふっ。あれ、のんちゃんらしいわね」


 志乃が壁のポスターを指差し、微笑んだ。

 天羽晶をセンターとした、RAY三人のものだった。もうすっかり色褪せている。

 部屋の整理にあたり外すか悩んだが、客人が志乃なのでそのままにしておいた。希未にとっては大切なグッズであるため、外したくなかった。

 とはいえ、いくら志乃でも、こうして触れられると恥ずかしかった。


「あら。それって……」


 志乃が何かに気づいたようだ。

 希未は志乃の目線を追うと、その先にはテーブルに置かれている丸い容器があった。ハッと驚き、慌ててそれを隠した。


「な、何のことですか……」

「うふふ。使ってくれてるのね」


 もう知られているが、誤魔化すしかないと希未は思った。

 以前、志乃の部屋で紹介されたハンドクリームだ。希未も購入して毎晩就寝前に使用しているが、確かに効果がある。

 本来であれば、ここは感謝するところだと希未は思う。しかし、どうしてか同じハンドクリームを使用していることを知られたくなかったのだ。


「そうだ。これ、お土産。スーパーで売ってたの」


 志乃も、しつこく追うつもりは無いようだ。

 新聞紙に包まれたそれを手渡され――希未は、匂いから花だと察した。


「フリージアよ。たぶん三日ぐらいで咲くわ」


 新聞紙を開けると、蕾状態の花が二本入っていた。茎の先端から弓なりに、複数の蕾が並んでいる。

 フラワーコーディネーターの志乃がこのような手土産を持参するのは、きっと珍しくないのだろう。

 だが、希未は私生活で花に触れる機会が滅多に無いため、戸惑った。フリージアという名前こそ聞いたことはあるが、この蕾がどのような花を咲かせるのかすら知らない。

 いや、それよりも――


「えっと……。すいません、そもそもウチに花瓶が無いです、たぶん」

「あー……私こそ、ごめんなさい。そこまで考えてなかったわ」


 コートを脱ぎながら、志乃が静かに驚いた。

 志乃が悪いわけではない。希未は女性として、とても恥ずかしいと感じていた。


「バケツはあるかしら?」

「それなら、まあ」

「よかった。とりあえず、そこでいいわよ。明日にでも、花瓶あげるわ」

「うう……何から何まで、すいません」

「気にしないで。それじゃあ、台所借りるわね」


 料理と縁の無い小さいキッチンもまた恥ずかしいため、希未は逃げるように洗面所へと向かった。

 バケツに水を汲み、花をそっと漬けた。慣れない作業だが、今のところはこれでいいのだろう。改めて、志乃に扱い方を訊ねるつもりだ。

 本当に花を咲かせるのか、不安はある。しかし、部屋の彩りになって欲しいと願った。


「お花、そんなに好きじゃないのに……誰かひとにプレゼントするのはいいんだ」


 希未はふと、その事実に気づいた。

 手渡してきた志乃から、嫌悪感の類は感じなかった。どうやら、仕事と贈物として扱う分には構わないようだ。

 彼女の基準が、よくわからなかった。


 希未は戻ると、志乃がパスタを茹でながら、包丁を動かしていた。何か手伝おうかと名乗り出たいものの、足手まといになることを恐れ、黙って見守ることにした。こたつに入った。

 滅多に客人を招かないため、この部屋に自分以外の誰かが居るのは久々だった。挙げ句、料理をして貰っているのは初めてだろう。

 奇妙な光景だが、希未は不思議と落ち着いた。


「さあ、食べましょう」


 やがて、志乃が皿をふたつ運んできた。鮭の切り身としめじ、エリンギで作られたクリームパスタだった。

 丁度いいと思い、希未はサングリアの缶を開けた。ふたつのグラスの注いだ。

 こたつで志乃と向き合って座り、パスタを食べた。


「すいません。仕事帰りにわざわざ、ご飯まで作って貰って……」


 本来ならば休日の自分が用意すべきだったと、希未は思う。情けない気持ちはあるが――パスタは素直に美味しかった。


「いいのよ。私、料理好きだから」

「ほんと、有り難いです。また今度、何かお返ししますから」


 この部屋に志乃が来ることになり、緊張していた。だが、いざ食事を始めると、気負うことなく落ち着いていた。

 温かな料理とにこやかな志乃に、とても居心地が良かった。


「成海さん――」


 希未は仕事の話を振ろうとした。天羽晶と澄川姫奈の件以外にも、確かめておきたいことがある。

 しかし、この場では失礼だと、かろうじて思い留まった。他の話題を探す。


「成海さんは、休みの日は何してるんですか?」


 志乃のことを、何かひとつでも知りたい。訊ねるには、丁度いい機会だ。触れにくい部分は避け、当たり障りの無い内容にしたつもりだった。

 志乃は意外そうな表情を見せた後、微笑んだ。


「そうね……。ルルちゃんと遊んだり……本読んだり、映画観たり……かしら」


 特に困った様子は無く、振り返りながらぽつぽつと挙げているようだった。

 何の変哲も無い、ありふれた回答だった。内容相応だと、希未は感じた。

 だが、会話をそこで途切れさせたくなかった。


「今度、一緒に映画観ませんか? どっちかの部屋でもいいですし……映画館に行くのもアリです」


 強引な食いつきであり――本心でもあった。

 希未は映画が嫌いというわけではない。だから、志乃との時間を共有する理由としては充分だった。


「ていうか……休日やすみ、合わせませんか?」


 今日の昼過ぎに思っていたことを、素直に口にしていた。恥ずかしさは無かった。


「いいわね。映画もだけど、どこかにお出かけしましょうか」

「はい。一緒に遊びに行きましょう」


 希未の目には志乃が乗り気に映り、嬉しかった。

 具体的な約束を交わしたわけではないが、そのような未来が近く訪れると確信した。行き先を決めることもまた、きっと楽しいだろう。


 食後の後片付けは希未が行った。

 それを終えると、ふたつのマグカップにミルクティーを注ぎ、電子レンジで温めた。そして、昼間に購入したチョコレートを取り出した。


「こたつって、ヤバいわね。全然出れないじゃない……」

「慣れと気合いですよ。はい、これ……いつも、ありがとうございます」


 こたつにうずくまっている志乃に、小さな紙袋に入ったチョコレートとマグカップを置いた。

 志乃はそれを見ると、思い出したように――こたつから出ることなく自分の鞄に腕を伸ばした。


「私こそ、のんちゃんには助けられてるわ。ありがとう」


 鞄から小さな箱を取り出す。包装紙とリボンでラッピングされていた。


「先に開けてみて」


 促され、希未はラッピングを解いた。さらにクラフトボックスを開けると、クッキングシートに四角い生チョコレートが敷き詰められていた。


「わぁ。お店のやつみたいですね」


 チョコレート自体の形が綺麗であり、梱包も含め市販のと遜色無い。だが、ラベル類が一切無く、手作りだと感じた。とても手が込まれたことが伝わり、志乃の気持ちが希未は嬉しかった。

 冷蔵庫で少々の保存が利くとはいえ、確かに早く渡したいと納得した。だから、休日を黙って適当に構ったことに、罪悪感が込み上げる。

 たかがチョコレート――で済ませていいものではない。


「味も自信あるわよ? はい、あーん」


 しかし、希未の内心を志乃は知るはずもなく――正面からひとつを摘み、差し出した。

 希未は恥ずかしいながらも、口を開けた。

 噛むことなく、チョコレートが自然に溶けていく。甘さがじんわりと口内に染み渡る。


「ほんと、めっちゃ美味しいですね。お菓子も作れるなんて、流石です」

「ふふっ。のんちゃんのためだもん。頑張ったわよ」


 希未は感心して舞い上がるも――志乃が職場で周囲にも同様に振る舞ったのだろうかと、ふと思う。一粒二粒を小さなビニール袋に包むならともかく、ここまで手が込んだものをいくつも作るのは考えられない。

 そこで敢えて思慮を止めた。余計なことを考えたくなかった。

 向かいの志乃は、希未が差し出した紙袋から箱を取り出し、開けた。様々なトリュフチョコレートが入っていた。


「こっちも美味しそうね。次、のんちゃんの番よ」


 志乃はテーブルから手を下ろし、口を開けた。


「え……。あ、あーん」


 希未としては受けるだけでなく、与えるのも恥ずかしかった。まるで餌を待つ小鳥のようだと思いながら、志乃の口へ一粒を運んだ。


「うん、お上品な味がするわ」


 両手で頬を抑える志乃に、希未は小さく笑った。喜んで貰えたことが嬉しかった。

 それに連れられてか、志乃も笑った。

 笑い合いながら、生チョコレートとトリュフチョコレートをふたりで食べた。単純な種類の違いだけでなく、手作りと市販であることも顕著だった。交互に食べれば無限に続けられそうだと、希未は思った。

 数日前のバレンタインフェアでは、確かに妬いていた。それを見かねてか、志乃がチョコレートを渡してくれることになるも、少し複雑な心境だった。

 だが今は、純粋に楽しかった。何を深く考えていたのだろうと、おかしくなる。

 やがて、ふたつの箱が空になった。


「うう……カロリー絶対にヤバいですよね」

「ニキビもきちゃうかもね」


 とはいえ、食べきったことに、少なくとも希未には罪悪感や後悔は無かった。たまにはこのような日があってもいいだろうと、割り切った。

 ただ、罪悪感に近いものが、ひとつだけあった。


「成海さんがここまでしてくれて、本当に感謝してるんで……ホワイトデーはちゃんとお返ししますね」


 いくら高級とはいえ、志乃の手作りチョコレートに対し、市販のものでは不釣り合いだと思った。きっちり補填をしたい。


「私も美味しいもの食べさせて貰ったんだし、別に気合い入れなくてもいいわよ」

「そうはいきません!」

「うーん……。困ったわねぇ」


 志乃は苦笑するが、希未に困らせている自覚は無かった。


「それじゃあ……私の誕生日、ホワイトデーに近いから、よかったらお祝いしてくれない? 三月八日なのよ」


 希未は壁のカレンダーを見ると、金曜日だった。この業界にとって繁忙日の前日であるため、大掛かりなことは出来ないだろう。それでも志乃にとって一年に一度の大切な日を、自分なりに祝いたいと思った。


「任せてください! 絶対に喜ばせてみせますよ!」

「ええ、期待してるわね。もう誕生日にはしゃぐような歳じゃないんだけど……ひとりぼっちは、なんだか嫌だから……」


 志乃がぽつりと漏らし、希未は俄然やる気が出てきた。

 ウェディングプランナーとして、誰かを喜ばせることには自信がある。

 それに志乃の言葉通り、折角の誕生日を、あの部屋でひとりきりにさせたくはなかった。今日こうして受け取った志乃の温もりを、貰った以上に返したい。

 希未は力強く頷いた。


「成海さんは、ひとりぼっちじゃないですよ。あたしが居ます」



(第06章『たかがチョコレート』 完)


次回 第07章『ケンカと心変り』

希未は志乃と意見が衝突する。

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