第02話
一月十日、木曜日。
午前八時半に、遠坂希未はスカートタイプのスーツ姿で都心の賃貸マンションを出た。ダークグレージュのストレートの前髪なしミディアムヘアを含め、身なりはきちんと整えられている。
十五分ほど歩き、職場であるホテルに着いた。
「おはようございます」
婚礼課の事務所は、ブライダルサロンに併設されている。希未は同僚に挨拶した後、自分の席に座った。
このホテルにウェディングプランナーは、希未を含み五名が所属している。事務所に席はまだ置けるが、業界の不景気により規模が縮小された。
それぞれが常に四から八組ほどを受け持っている。分業の式場もあるが、ここでは営業から打ち合わせ、当日の進行確認までの一貫を担う。
始業時間の午前九時を前に、それぞれがもう仕事に取り掛かっていた。
「おはよう、遠坂」
希未の隣の席に座るのが、上司であり婚礼課の責任者にもあたる、マネージャーの
「もうちょっとしたら挨拶に来ると思うから、披露宴会場とチャペルの案内してくれる?」
「え……。ちょっと待ってください。何のことですか?」
絵里子から頼まれるも、希未は朝一番に内覧の予定など入っていない。今日は午後二時から顧客との打ち合わせがある。
どの件を指しているのか、理解できなかった。もしかすれば自分が忘れているのかもしれないと、不安が過ぎった。
「この前言ったじゃん。花屋の新入りが今日から来るって」
「ああ。そういえば、そうでしたね。案内ぐらいなら、まあ……」
希未は思い出した。
このホテルに花を扱う部署は無く、全国展開している大手の花屋と業務提携している。この部屋から離れているが、同じ二階フロアに一部がフラワーサロンとして入居している。
正月は宿泊絡みの仕事で忙しかったので実感が無いが、世間はまだ年始にあたる。この節目に新たなフラワーコーディネーターが配属されると、昨年から聞かされていた。
チーフである自分が建物内の案内役に回るのは適切だと、希未は納得した。
「どんな人なんでしょうね」
「さあ。いけ好かなくても、仲良くしてよ?」
ウェディングプランナーにとって、フラワーコーディネーターとドレスコーディネーターは仕事で大きく関わることになる。親しみやすい人物であって欲しいと、希未は願った。
やがて午前九時十五分になり、事務所に花屋の従業員が訪れた。希未にとって見知った顔が、知らない顔を連れていた。
「はじめまして。
いや――事務所の全員に対し挨拶したこの女性に、希未は強い既視感があった。
ミルクティーアッシュのロングヘアを束ね、ゆったりした白いニットにグレーのマキシスカート、そして黒いエプロン。
格好だけではなく、おっとりした雰囲気の人相からも、希未は花屋らしさを感じた。
この姿を見るのは、確かに初めてだ。だが、昨晩サウナで会った人物であると、希未は確信した。
約十二時間振りの再会であった。驚きから声が出そうになるが、堪えた。
「これから一緒に頑張りましょうね」
「……」
志乃と名乗った女性が希未に近づくと、正面から両手を取り、微笑んだ。
希未は唖然としながら、ただされるがままに腕を振られた。
「あれ? 遠坂、知り合い?」
「違います。初対面です」
絵里子から訊ねられるも、希未は即答した。昨晩のことを、上司にだけは知られたくない。
「とりあえず、ホテルの案内しますから――行きましょう」
にこやかな志乃から何かぼろが出る前に、早くこの場を切り上げないといけない。
希未は志乃の腕を掴み、ブライダルサロンを出た。
「……絶対に知ってましたよね?」
従業員用のエレベーターへと歩きながら、隣の志乃を見上げた。
サイドに流した長い前髪が、なんだか艷やかに感じた。
「あらー。何のこと?」
「とぼけないでください。どうして昨日、黙ってたんですか?」
熱気で曖昧な空間での出来事を、希未は覚えていた。
このホテルのウェディングプランナーであると、こちらの正体を明かしたのは確かだ。常識的に考えれば、すぐに挨拶と自己紹介が返ってくるはずだった。
「うーん……。面白かったから」
志乃が明るく笑う。
嘲笑の気が含まれていないにしろ、ふざけた回答だと希未は思った。
「それに……あのシチュエーションだからこそ、貴方は本音を話してくれたじゃない」
「結果的に、です。返してくださいよ……あたしの秘密」
「ふふっ。もう無理よ」
意図的に話を引き出されたのではないと、希未は理解している。自然な流れであり、弱音を吐いたのは偶然である。
一概に志乃を責めることが出来ず、モヤモヤした気持ちでエレベーターに乗り込んだ。
「昨日話したことは事実です。だから……周りには、その……」
狭い密室でふたりきりになった途端、希未はひとまず口止めした。
「ええ。言いふらすつもりは無いし、弱みを握ったつもりも無いわ」
穏やかな笑みを浮かべる志乃に、希未は少なくとも悪意や嘘を感じられなかった。
完璧に口止めする手段が無い以上、その言葉を信じるしかない。交換として志乃の秘密を要求するのは、なんだか嫌だった。
「貴方、真面目で良い人だもの。私なりに応援してるわよ。また心から、誰かの幸せを祝えるといいわね」
これが適当な発言の可能性は、充分に考えられる。だが、昨晩弱音を受け止められたことから、希未には優しい言葉に聞こえた。
この受け答えに加え、志乃が柔和な人柄だからだろうか。こちらの秘密を知られたとはいえ、それほど嫌ではなかった。
「あ、あたしのことより仕事してください! 成海さん……でしたっけ? この道長いんですか?」
気持ちが緩みそうになるが、話題を変えることで誤魔化した。
志乃が遠方から転職してきたと、希未は事前に聞いていた。転職とはいえ、異業種からなのか店の移籍なのか、ふたつで意味合いは大きく違う。
もっとも希未の目には、少なくとも新人ではないように映っていた。おっとりとした雰囲気ながらも、ひどく落ち着いているからだろうか――貫禄すら感じる。
「ええっと、三十二になるから……七年目?」
「ベテランじゃないですか」
志乃が年上であることも、経験者であることも、思っていた通りだった。環境の違いはあるだろうが、キャリアとしては申し分ない。希未はひとまず安心した。
ただ、二十五歳からフラワーコーディネーターを始めていることが、少し引っかかった。それまで何をしていたのか気になるが、この場で訊ねるのは控えた。
「期待に沿えるように頑張るわね。ええと……貴方の」
志乃が言葉が詰まらせて最後を付け足したことに、希未は首を傾げた。だが、すぐに理解した。
「すいませんでした。そういえば、自己紹介まだでしたね。あたし、遠坂希未っていいます」
「のぞみちゃんだから……のんちゃん、ね」
「ちょっと! その呼び方、やめてくださいよ!」
希未は幼い頃、母親からそう呼ばれていたことを思い出した。
うふふと小さく笑う志乃から、柔和な人柄も相まって――年上というより、母性に近いものを感じる。つまり、頭が上がらない。
「そうそう。のんちゃんのおっぱい、綺麗な形だったわよ」
「何ちゃっかり見てたんですか! 今すぐ忘れてください!」
「あら。自信があって見せてたんじゃないの?」
「そんなわけないです!」
大声で慌てふためいたところで、エレベーターが十五階に到着した。
新人にも関わらず、立場は志乃が上だと希未は感じた。きっと、これからもこの調子でからかわれるのだろう。先が思いやられた。
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