腕を組んで歩ける日まで
未田
本編
第01章『腕を組んで歩ける日まで』
第01話
一月十二日、土曜日。
午前十一時、教会内は立ち上がった多くの参列客による拍手に包まれた。
ウェディングドレス姿の女性とタキシード姿の男性が腕を組み、祭壇からバージンロードを歩いていく。
ふたりはとても幸せそうな横顔だった。皆が笑顔で祝福していた。
だが希未は、この温かな空間で自分ひとりだけが異質であると感じていた。
一体いつからだろうと、ふと思う。
作り笑顔を浮かべ、形だけの拍手を送るようになったのは。
披露宴まで終え、私服に着替えた新郎新婦に希未は最後の挨拶をした。
やはりとても幸せそうなふたりから、感謝をされた。
希未は嬉しさを噛み締めるよりも、ようやく肩の荷が下りた実感の方が大きかった。きっと、もう会うことも無いだろう。
それから夕方に内覧が一組、そして事務と――今日は午前七時半に出社し、希未は午後九時過ぎに仕事を終えた。二階のブライダルサロンから、十六階の大浴場へと向かう。
大浴場を割安で利用できるのは、福利厚生のひとつだ。今日のように上がりが遅くなった際は、利用して帰ることが多い。
ホテルとはいえ宿泊が主要ではないため、一般客はほとんど居ない。また、大浴場の営業時間は午後十時半までのため、この時間は尚更だった。
希未は脱衣場で入浴準備をすると、透明の防水ブックカバーに折った紙を一枚詰め、併設のサウナに入った。L字のベンチに五人まで座ることの出来る狭い空間は、今夜もやはり、他に誰も居なかった。
ベンチの隅に腰を下ろす。テレビの雑音が耳に触れる中、ブックカバーを眺めた。頭は休まることなく、まだ仕事をしていた。
ブックカバーの中に入っているのは、顧客情報の書かれた資料だった。本来は持ち出し厳禁であるうえ――対策をしているとはいえ、サウナに紙類を持ち込むのは良くないと、希未は自覚している。
だが、ひとりきりになれるこの空間で、考え事に耽ることが多かった。
サウナに入って五分。冬の寒さを忘れ、全身から汗が流れ出る頃、ふと扉が開いた。希未は咄嗟にブックカバーを腰の陰に隠し、顔を上げた。
フェイスタオルで毛髪をまとめ、バスタオルを身体に巻いた、ひとりの女性が入ってきた。知らない顔なので同僚ではなく、一般客だと捉えた。
珍しい出来事だった。
「あら」
女性としても、先客が居ないと思っていたのだろう。希未に微笑みかけると、対角の位置に座った。
背が高く、スタイルは良い。顔も素っぴんの割には綺麗だと、希未は感じた。そして、腕や脚の素肌から、自分と近い年齢だと思った。しかし、穏やかなほど落ち着いた雰囲気からは、年上に見えた。
希未はブックカバーに手を置いたまま、平静を装って会釈した。
自分以外に誰も居ないことが前提だったので、希未はフェイスタオルで毛髪をまとめているだけだった。裸体を露わにしているが、羞恥心にまで思考が回らないほどに困惑していた。
おそらく、紙類を持ち込んでいることは女性に見られているだろう。希未の本心としては、今すぐにでもサウナを出たい。だが、何かを隠しながら入れ替わりに出ては、却って不信感を抱かせる可能性がある。この状況をどうすればいいのか、考えていると――
「こんな所で、お仕事?」
希未は女性から声をかけられ、隠すことを諦めた。
女性のにこやかな様子に、懐疑を感じられなかった。楽観的に考えれば、いけない行為とさえ思っていない節がある。ただの他愛無い雑談を振られたと、希未は捉えた。
「はい……。あたし、このホテルでウェディングプランナーやってます」
そして、正体を明かして堂々と振る舞った方が穏便に済むと判断した。
「へぇ。華のあるお仕事じゃない」
「そんなことないですよ。地味な裏方です」
希未は謙遜することなく、素直に否定した。
きらびやかなのは、式の主役である
「そう? 周りから感謝されて、笑顔に囲まれるんでしょ?」
確かに、そのような意味では華があると、希未は納得した。だが、肯定する気にはなれなかった。
『本日のゲストは、
ふと、その氏名が聞こえ、希未はテレビに自然と目が向いた。
トーク番組のようだった。拍手と共に、ぼんやりとした表情の女性が迎えられていた。
もしもこの場でひとりだったなら、希未もテレビに拍手していただろう。
「この人、いくつだっけ? いつまで経っても綺麗よね」
女性もまたテレビを観ながら、そのような感想を漏らした。
「三十四です」
意図せずとも話題が変わったことに、興奮気味の希未は気づいていない。ただ、些細な疑問に反射的に即答した。
自分より六歳年上の存在であることは、遠い過去より把握している。年齢だけでなく、この人物に関する一般的な情報は、現在もなお頭に深く刻まれていた。
「詳しいのね」
「
三人組の女性アイドルグループ『RAY』は十九年前に結成された。彼女達の勢いと知名度は瞬く間に伸びていき、国民的アイドルとなった。
現在はタレントとして芸能活動を唯一続けている柳瀬結月も、そのひとりだった。
無数のサイリウムの光が揺れる中、ステージで歌とダンスのパフォーマンスを見せる三人――その姿を希未は、映像でも遠くの席からの実像でも、数え切れないほど観てきた。
三人を応援していた学生時代は、とても幸せだった。どれほど辛いことがあっても、笑顔になれた。
「私はファンというわけじゃないけど、世代だったから……残念よね」
「そうですね。今年でちょうど、十年なんですよ」
「そんなに経つの? 早いわねぇ」
希未としても、まるで昨日の出来事のようだった。
十年前『不運の交通事故』によりメンバーのひとりが亡くなり、RAYは結成九年目にして解散した。
国中が悲しみに包まれた中、希未もまるで世界が終わったかのように思った。希未が最も推していた人物だったのだ。
だが、高校三年生にして初めて、親戚の――結婚式に参列した。笑顔と幸せの溢れる場に感動し、支える側として携わりたいと思った。
「RAYから沢山のものを貰いました。だから、次はあたしの番だと思って……この仕事を選びました」
希未は誇らしげに、テレビに映る柳瀬結月を見つめた。今もなお、感謝と尊敬の念を抱いている。
こうして過去を振り返り、かつて抱いた気持ちを思い出した。青臭いが、嫌ではなかった。
「って、あたし何語っちゃってるんでしょうね」
ようやく我に返り、初対面の人間――しかも一般客を相手に喋っていたことに気づいた。恥ずかしさで悶えるところだが、なんとか堪え、苦笑した。
そんな希未に、女性は微笑んだ。
「そうやって夢を叶えたなんて、素敵な話じゃない。もっと聞きたいぐらいよ」
「あたしとしては営業トークしたいぐらいなんですけど……お姉さんは式を挙げる予定、ありますか?」
もうこの際無礼講だと思い、希未は本音で訊ねた。
「うーん……。無いかな」
女性は笑いながら否定した。
冗談のようにも聞こえたため、希未は念のため女性の両手を見る。脱衣場で外したにしろ、どの指にも指輪が嵌った跡は無かった。とはいえ、この情報だけでは何とも言えない。
それよりも、爪にはデコレーションはおろか、マニキュアすら塗っていなかった。おっとりとした女性の雰囲気となんだか不似合いであり、意外に感じた。
何者なのか、希未は見当すらつかない。話している感触から、前入りで宿泊している、遠方からの参列客でも無さそうだが。
「でも、貴方が良い感じのプランナーさんだってことは、よーくわかったわ」
式を考える際は、是非とも頼ってください――希未はそう返すはずだった。
過去を振り返ったからか、今は感傷的な気持ちが込み上げ、女性の言葉をとても受け入れられなかった。
「最近……自分でも、よくわからないんですよ。このままでいいのかなって……」
営業職として、弱音を吐くことは決して許されない。
だが、希未は名前も知らない他人の女性を信じた。きっと一期一会だからこそ、許されると思った。
「RAYの解散から始まって……あっという間の十年でした」
希未は短期大学を卒業後、二十歳でこのホテルに就職した。二年の現場研修を経て、ウェディングプランナーとしては六年目、社会人としては八年目となる。
顧客の希望をなるべく叶える――幸せを支えることは激務だが、最後に笑顔と感謝が返ってくると、やり甲斐を感じた。だから、これまで続けてこられた。
仕事に明け暮れた二十代だった。ウェディングプランナーとしては、確かに成長した。
だが、女性としての遠坂希未は、立ち止まっていた。
解散したRAYは、世間で次第に風化していった。伝説のアイドルグループとして名を残すも、現在では一世代前の扱いであり、皆の記憶から薄れている。
希未としても、RAYが現役だった頃に比べ、確かに熱は冷めていた。もう彼女達から新しいものを得られないのだから、当然だ。
RAYへの気持ちが大切な思い出として、遠く離れていく。それは寂しさと共に、時間の流れを希未に感じさせた。
「あたしには、仕事しかなかったんで……アラサーなのに独り身なんですよ」
そして、同級生達が結婚していくことにも、時間の流れを感じた。中には、扱った式もある。
身近な者が家庭を持つ段階に進んでいく中、自分はひとりで――進めないのだと気づいた。温かな幸せに触れる機会は多いが、自身は決して掴めなかった。
「誰かの幸せに関わるのが、だんだん怖くなってきたというか……心から祝えなくなってきたというか……」
この十年はいったい何だったのだろうと、ふと考える。
時間が過ぎていく一方で、大切な思い出だけがすり減っていく。
希未は激務に追われる日々で、RAYに代わる出会いが無かった。仕事のやり甲斐――過去に比べ薄れているが、それだけでは到底では埋まらないほど、心に大きな穴が開いた。
否、むしろ仕事に支障をきたした。嫉妬、焦燥、不安が付きまとい、他者の温かな幸せに触れることが億劫になっていた。
この仕事を始めた当初のように、顧客の幸せを第一に考えることが出来なくなっていた。間違ってはいないが、売上を優先的に考えるようになっていた。
「結婚願望はあるの?」
「無いわけじゃないですけど……仕事のために相手を探すのは、違いますよね」
希未は社会人になってからも、恋愛経験は何度かあった。だが、職業柄相手に時間を合わせられず、どれも長続きしなかった。
最低限の生活を送れている意味では、自分のことを不幸であると思わない。だが、幸せであるとも思わない。
そもそも、独身だから虚しくなるのか、定かではない。周りのように結婚することで本当に満たされるのか、幸せとは何なのか、希未にはわからない。
ただ、せめてRAYが現在も続いていればと、時々考える。
RAYの解散を言い訳にすることは、彼女達に失礼だと自覚している。それでも、現在も彼女達から得ているなら、違っていたかもしれない。
しかし、それはもう永遠に叶わぬ夢だ。
「モヤモヤしたまま生半可な気持ちでお客さんと向き合うのが、なんか申し訳なくて……。ぶっちゃけ、転職もちょっと考えてます」
だから、逃げるという選択肢が現れた。
自分の不甲斐なさで、大切な思い出をこれ以上汚したくなかった。億劫な気持ちのまま向き合い、この十年を否定したくなかった。
それに、体力的にもこの仕事をいつまでも続けられるとは思えない。部署異動や転職は、業界では珍しくない。良い意味で考えると、三十歳の節目を目前にキャリアを見つめ直す機会だった。
希未はこれまで誰にも話したことがない仕事の悩みを、見知らぬ女性に打ち明けた。
「真面目だからこその悩みね。貴方、きっと優秀よ」
背中を押して欲しいわけでも、引き留めて欲しいわけでもない。希未は欲しい言葉を他人の女性から与えられ、笑みがこぼれた。
女性の柔和な人柄に、心地良く弱音を吐くことが出来た。
「ありがとうございます。すいませんでした、変な話をして……。おかげで、スッキリしました」
サウナに入って十分ほど経過しただろうか。話が一段落つくと同時にのぼせ気味になり、希未は席を立った。
「ねぇ。今の仕事、好き?」
扉を開けようとしたところ声をかけられ、希未は振り返った。
「はい!」
そして、躊躇なく頷いた。
どれだけ大変でも、好きだから現在まで続けられた。今はかつての気持ちを振り返ったこともあり、間違いないと胸を張って言える。
「それなら、もうちょっと頑張ってみたら? もしかしたら、何か変化があるかもしれないわよ」
これまでと打って変わり、突然踏み込んできたように希未は感じた。
なんだか引っかかるが、のぼせそうな頭では深く考えられなかった。
「そうですね……」
笑顔で適当に相槌を打つと、扉を開きシャワーへと向かった。
ここでようやく、希未は身体にタオルを巻いていないことに気づいた。恥ずかしさが込み上げるが、もう会うこともないだろうと割り切った。
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