36 私にしかできないこと


「――大丈夫か?」

 


 本を通じて見た記憶に困惑し、立ち尽くしていると、いつの間にか戻っていたジンさんに呼びかけられた。

 

 思考が、未だ記憶と現実の狭間で揺れているようで……彼の方を向くも、「あ……」と口にするのがやっとだった。


「あら……奥様、どうされました?」


 ジンさんに続き、孤児院の職員の女性が心配そうにこちらを伺う。

 ジンさんは私の身体を支えるように寄り添うと、

 

「すみません、どうやら体調が優れないようです。今日のところはこれで失礼します。養子の件は、伺ったお話を参考に検討させていただきます」


 そう手短かに挨拶すると、そのまま足早に孤児院を後にした。




 * * * *




 孤児院の外で待機していたエミディオさんと合流し、私たちは昨夜から宿泊している宿へと戻った。

 

 ジンさんの部屋に集まり、ベッドへ腰掛ける。

 まだ足元がふらついているが、思考はだいぶ現実に戻りつつあった。


「メル……本当に大丈夫か?」


 ジンさんが、心底心配そうな表情で私を見つめる。

 私は小さく頷き、同時に、強い罪悪感に襲われる。


「申し訳ありません……もっと調べるべきことがあったのに……私のせいで……」

「そんなことより君の体調が最優先だ。辛いなら、少し横になるといい」

「大丈夫です……それより、お二人に……共有しなければならないことがあります。『選定者』の正体がわかりました」


 私の言葉に、ジンさんとエミディオさんが目を見開く。


「それは本当か?」

「メルちゃん、四年前の記憶を見ることができたの?」

「はい……結論から言えば、私とジンさんは、『選定者』に接触したことがあります」

「……どういうことだ?」


 私は、ごくっと喉を鳴らしながら、ジンさんを見つめ……言う。

 


「……ジンさんに教会から連れ出された時、私の腕を掴んでいた男を覚えていますか? 私が記憶を辿って見た『選定者』は、あの男と――傭兵のセドリックと、同じ顔をしていました」

 


 ジンさんの顔が、驚愕に染まる。


「それは……確かなのか?」

「はい、間違いありません。顔も声も体格も、完全に同じ……私が毎日のように治癒していた、あの男です」

 

 断言する私に、ジンさんは思考を巡らせるように視線を落とし、呟く。


「まさか、そんな偶然が……いや、なるほど。そういうことか」

「なになに、どういうこと? 僕にもわかるように説明してよ」

「セドリックという男は、傷を癒すため、聖女であるメルに何度も接触していた。そして無理矢理交際を迫り、どこかへ連れて行こうとした。それを俺が止めたのだが……今思えば、メルが持つ"対象物の『時間』に干渉する能力"を見抜いたからこそ、連れ去ろうとしていたのかもしれない」

「それじゃあ、メルちゃんも人身売買されそうになったってこと?」

「恐らくな。初めは『高い治癒力を持つ聖女』の噂を聞きつけやってきたのだろうが、メルがそれ以上に特異な能力を持っていると気付き、標的にされたのだ」


 ジンさんの説明を聞き、あらためてぞっとする。

 あの男の笑顔の中に見た、暗くて怖いなにか……今思えばそれは、私を拉致しようとする悪意の影だったのだろう。


「私が見た記憶の中で、セドリックは『アズバード』と名乗っていました。どちらも偽名だとは思いますが……」

「そうか……偽名がわかったのなら、記名帳を調べに戻る必要がなくなったな。想定以上の成果だ、メル」


 そして、ジンさんはエミディオさんの方を向き、


「夜になったら別の孤児院へ忍び込み、片っ端から記名帳を調べよう。『アズバード』の名が残された場所を見つけたら、明日あらためて訪問する。そこで、より詳細な記憶を探るんだ。奴らに近付く手がかりを一つでも掴むことができれば……」

「――それよりも」


 ……と。

 ジンさんの言葉を遮ったのは、他でもない私だ。

 驚いたように振り返る彼に、私は意を決し、


「もっと、確実に……あの男をおびき寄せる方法があります」


 落ち着いた声で、言う。

 

 ……そう。

 本当は、ジンさんだってわかっているはず。

 地道に孤児院を回るより、もっと効率的に奴を捕える方法があることを。


 私は、すっと息を吸うと……自分の胸に手を当て、



「――私が、囮になります。あの教会に戻り、聖女として復帰すれば、奴はまた私に接触しに来るはずです。そこを捕えれば、組織に関する情報を……」

「馬鹿なことを言うな!」



 ――と、聞いたこともないような、大きな声で。

 ジンさんが、私に怒鳴りつけた。

 

 そして、私の両肩をガッと掴み、


「自分が何を言っているかわかるか? 奴らは躊躇なく人を殺せるんだぞ?! その上、特殊部隊をもってしても痕跡を掴めない巧妙な拉致を繰り返している。そんな連中を相手に、囮になるなんて……あまりにも危険すぎる!」

「ですが、ここで動かなければ、それこそジンさんの十年間が無駄になってしまいます! 組織の人間と繋がりを持てたことは、神様が与えてくれた奇跡……これを利用しない手はありません。奴らがこちらの動きに気付く前に、先手を打つべきです!」

「だが……だからといって、君を囮にするわけには……!」

「ジンさんが許してくれないのなら……私は、エミディオさんと行きます」


 はっきりと言う私に、ジンさんは言葉を失う。

 私は、エミディオさんの方を向き、


「エミディオさんなら……国の特殊捜査官であるあなたなら、私を囮にしてでも『選定者』を捕らえる策に賭けますよね?」


 そう、笑みを浮かべ投げかける。

 すると、彼は肩を竦めながら笑って、


「えぇ? 僕ってそんな薄情な人間に見える?」

「組織の壊滅はあなたに課せられた任務であり、国民を護るための使命。私一人の犠牲で済むのなら、こんなにおいしい話はないでしょう?」

「ふっ……あははっ。君は本当に賢いね。その通りだよ。僕はジンと違って、私情に流されたりしない。大義を果たすためなら多少のリスクは厭わないし、それを君が負ってくれるというなら、僕は喜んで利用させてもらう」

「エミディオ……ッ」


 ガッ……と、ジンさんがエミディオさんの胸ぐらを掴む。その目は、怖いくらいの殺気に満ちている。

 しかしエミディオさんは、いつものようにヘラッと笑い、


「僕、間違ったこと言ってる? 君が言った通り、相手は非情な殺人集団であり、狡猾な犯罪組織だよ? 既に何人も犠牲になっているし、何年もけむに巻かれている。そんな敵を相手に、今さら多少のリスクもなしに『復讐』が果たせると思ってるの?」

「メルの命は……『多少のリスク』などではないだろ……ッ」

「あーあ、だから言ったんだよ。ハマりすぎるとロクな思いしないよ、って」


 エミディオさんは吐き捨てるように呟くと、自らの胸ぐらを掴むジンさんの手を握り返し、


「わかってるよ。策を講じなければこんな囮作戦、『リスク』どころか『自殺行為』にしかならない。それを『多少』に収めるために、僕がいろいろ手を回すって言ってんの」

「……どういう意味だ?」

「僕以外の特殊捜査部隊も動員して、メルちゃんを護る。貴族が絡む重要な案件として、国も長年動向を追って来たんだ。惜しみなく人員を割いてくれるはずだよ。それに僕は、犯人と刺し違えてでもメルちゃんを護る覚悟がある。それは他の隊員も同じ。『命を賭して国民の安全を護る』。それが僕たち、特殊捜査官の仕事だからね」


 その言葉に、私は「エミディオさん……」と呟く。

 

 やっぱりエミディオさんは、思った通りの人だ。

 任務のためなら、個人の感情より大義を優先させる。

 しかし、決して人命を軽視しているわけではない。むしろ被害を拡大させないために、最小のリスクと最短の効率で標的ターゲットに近付く策を冷静に選択できる。

 彼は……そういう人だ。

 

 この状況において"最小のリスク"とは、私が囮になること。

 この機を逃せば、また犠牲者が出る。そして、その痕跡を後から追うしかなくなる。イタチごっこの繰り返しで、犠牲は増えるばかりだろう。

 そんなこと……ジンさんだって、望んでいないはず。


 私はジンさんに近付き、真っ直ぐに見上げる。


「……私の身を案じてくださり、ありがとうございます。でも、今はこれ以上の作戦はないと思います。じゃ、頼りないかもしれないけど……」


 ……そう言いかけて、私は首を横に振る。



「……いいえ。これは、です。私が教会に戻ったことを聞きつければ、奴はきっと現れます。そこを捕らえて、情報を吐かせる……そうすれば組織も、手引きしていた貴族たちも、一網打尽にできます」



 そして……

 未だエミディオさんを掴む腕に、そっと手を当てて、

 


「大丈夫です。私は絶対に捕まったりなんかしません。私だってやれば出来るって……『私なんか』と卑下すべきじゃないって、ジンさんが教えてくれたから。だから、どうか……もう一度、契約を延長してください」

 


 そう、微笑みながら言った。

 

 ジンさんは、苦悶の表情を浮かべ、葛藤するように沈黙し……

 やがて、エミディオさんの胸ぐらから手を離し、


「『刺し違えてでもメルを護る』……? まったく……よくもそんなカッコつけたことを言ってくれたな」


 と、エミディオさんをジトッと睨んだかと思うと……

 私の肩を、ぐいっと抱き寄せ、


「メルを護るのは、この俺だ。俺がいる限り、彼女には指一本触れさせやしない。そして……奴を、必ず捕まえる」

「ジンさん……っ」


 突然肩を抱かれ、私は声を上擦らせる。

 ジンさんは、困ったように私を見つめ、


「本当に、君は……高潔でしたたかだな」

「なっ……」

「しかし、そういうところに惹かれて、俺は君に近付いたんだ。このような策も、君らしいと言えば君らしい」


『惹かれて』、って……それは、『協力者』として、って意味ですよね……?

 鼓動を加速させる私に、ジンさんは優しく微笑み、


「……俺の負けだ。君の案を飲もう。ただし、君の安全を最優先にして臨む。単独行動や、自己犠牲を選ぶような真似はしないと約束してくれ」

「はい、約束します。でも、それはジンさんもですよ? もちろん、エミディオさんも」


 私が視線を向けると、彼はニヤニヤと笑いながら口元を押さえ、


「えー? そんなイチャイチャしながら言われても、全然嬉しくないなぁ」

「い、イチャイチャなんてしていません!」

「ま、何にせよ次の行動は決まったね。それで、いつ動く?」


 動揺する私と対照的に、ジンさんは冷静な表情で頷き、



「来週から始まる連休――『聖エレミア祭』の期間を使う。教会を利用するにはもってこいの時期だ」



 迷いのない声音で、そう答えた。



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