21 見知らぬ傷痕


「――今日の夕食も絶品だった。君は本当に料理が上手いな」



 その夜。

 夕食を終え、洗い物をする私の隣で、お皿を拭きながらジンさんが言う。もちろん、昨日買ったストライプのエプロン姿だ。

 

 彼に料理の腕を褒められ、私は照れ隠しにふいっと目を逸らす。


「絶品だなんて大袈裟な……ごく普通の、平凡なハンバーグですよ」

「しかし、フライパンで表面を焼いた後、きちんとオーブンで仕上げていただろう? レストランと変わらない手間をかけている。ソースも赤ワインを煮て作っていたし、かなり本格的だ」


 この人……料理はできないのに、調理工程にだけは詳しいらしい。昨日作ったローストチキンも、様々な蘊蓄を交えながら「美味しい」と褒めてくれた。

 

 私の調理スキルは、孤児院にいた時に身に付けたものだ。

 年齢が上の子供は職員の給食作りを手伝う決まりがあった。だから、私としては生きる上で当たり前の技術なのだが……


(こうして褒められると、なんかくすぐったくて、反応に困る……)


 嬉しさに口元が緩みそうになるのを堪え、私は落ち着いた声で彼の言葉に答える。


「お口に合ったのならよかったです。明日の夕食は、何か食べたいものはありますか?」

「ふむ。ビーフシチューはどうだろう? 手間のかかる料理かもしれないが、君が作る味を食べてみたい」

「わかりました。では、明日の帰りにお肉を買いましょう」

「あぁ。せっかくなら特上の牛肉を買おう。今から楽しみだな。ふふ」


 そう言って、嬉しそうにお皿を拭くジンさん。

 その雰囲気は、教室で見た教師の顔からは想像もできない程に柔らかで、隙だらけだ。

 

 そのギャップにドギマギしつつ、私は講義で聞いた内容を思い出し、こう続ける。


「そういえば……今日の講義で言っていた三つの問いかけ。私も考えてみました」

「ほう。まだ初回授業だから、基礎中の基礎にしか触れていないが……考えてみてどうだった?」

「……ジンさんは既にご存知かと思いますが、私、母を病気で亡くしているんです」


 私の言葉に、ジンさんは静かに頷く。やはり、その辺りの経歴も知られているようだ。

 

「その経験が、これまでの人生で最も辛い出来事で……だから、『母の病気を癒したい』という想いが治癒の力を授かることに繋がったのだと、そう考えました。けど……」

「…………」

「……この力が、私の望む形なのかなんて、考えたことがなくて……三つ目の質問に、ちょっと悩んでいます」


 お皿を洗う手を止め、私は俯く。

 

 自分の治癒能力には、何の不満もない。

 そうであるはずなのに、何故か私の中で、この問いがひっかかっていた。

 だから、思い切ってジンさんに聞いてみたのだが……初歩的な質問すぎて、困らせただろうか?


 そんなことを考える私に、彼は無言で近付き……私の洗いかけのお皿に手を伸ばし、代わりに洗い始めた。

 肩と肩が触れそうな近さにドキッとしていると、彼が口を開く。


「その問いが気になるとは、良い着眼点だ。多くの魔法初心者は、そこを突き詰めて考える必要がある」


 そして、ジンさんは最後のお皿を洗い終え、きゅっと水栓を止めて、


「辛く苦しい状況に置かれた時、自分が真に望んだものは何だったのか。それこそが、自分の能力の"本質"に目覚める上で、最も重要な気付きなんだ」

「自分が、真に望んでいたもの……」

「そう。これについては、次の次の講義で触れる予定だったが、君はかなり先取ってしまったな。実に優秀な生徒だ」


 そう言って、エプロンで拭いた手を、ぽんと私の頭に乗せる。

 その感触に、私は顔を熱くし、目を見開く。


「だが、ここから先の自己分析が最も難しいんだ。君にとって、思い出したくない記憶と向き合うことになるかもしれない……くれぐれも無理はしないでくれ」


 ぽんぽん、と軽く頭に触れ、心配するように言うと……彼はそのまま、キッチンから去って行った。

 

 残された私は……彼に触れられた頭に手を乗せ、暫し呆然とする。

 

(くぅっ……いつもいつもナチュラルに触れてきて……あなたは女慣れしているかもしれないけど、こっちは毎回心臓ばくばくだっつーの!)


 真面目な話をしていたことも忘れ、私は悔しさに歯軋りしながら、高鳴った鼓動を抑えるべく深呼吸する。

 

(あぁもう……ジンさんには動揺させられてばかりだ。早くお風呂に入ってシャワーで頭を冷やしたい……でも先にジンさんが入るから、上がられるまで我慢我慢……)


 ……と、そこで、私はハッとなる。

 バスタオルを洗濯して干して、取り込んだきりまだ脱衣所に戻していないのだった。

 ジンさんがお風呂に入る前に、所定の位置に戻さなくては。


 私は洗濯済みのタオルを手に、急いでお風呂場へ向かう。

 そして、脱衣所の扉をガチャッと開け……固まった。

 


 そこに…………ワイシャツを脱ぎ、上半身裸になったジンさんがいたから。


 

「…………!!」


 瞬間、全身から血の気が引く。

 

 ジンさんは、背中をこちらに向け、今まさにスラックスを脱ごうとしているところだった。

「ん?」と気付いた彼がこちらを振り向く前に、私は慌てて扉を閉める。


「し、ししし、失礼しました! たたた、タオルを戻そうと思って、それで……!!」


 見てしまった……ジンさんの、半裸を……!

 同居していればいつかはこんな事故があるのではと思っていたが……ついにやってしまった……!!

 

 煩いほどに脈打つ心臓を全身で感じ、ぐるぐると目を回していると……背後で、脱衣所の扉が開いた。

 そして、


「……メル」


 ジンさんが、名前を呼んだ。

 

 ドキッとして、呼吸が止まる。

 恐る恐る振り返ると……彼は半裸のまま、扉の隙間から顔を覗かせていた。


「は……はわわ……!」

「……ありがとう。それは俺が戻す。貸してもらえるか?」

「……あ」


 そう言われ、肝心のタオルをぎゅっと抱き締めていたことに気付く。

 私は目を背けながら、バッとそれを差し出す。


「す、すみませんでした! 次からは必ずノックします!!」

「ふふ、構わない。むしろ、こうした事故がこれまで起きなかったことの方が奇跡だ。何せ、一緒に住んでいるのだからな」

「そ、それはそうですけど……」


 目のやり場に困り、もじもじする私に……ジンさんは、意地悪な笑みを浮かべ、


「しかし……少し残念だな」

「……え?」

「背中を流しに来てくれたのかと、一瞬期待してしまった」


 そんなことをのたまうので……私はぶわっと顔を熱くし、反論する。


「そそそそ、そんな……そんなわけないじゃないですか!?」

「あはは。もちろん冗談だ。すぐに上がるから、少し待っていろ。その赤い顔をしっかり冷やさないとな」


 と、やはり揶揄うような笑みを残し……扉の向こうへと消えていった。


 一気に脱力し、私は「はぁ……」とその場にへたり込む。

 なんか……男性慣れするどころか、一緒にいればいるほど、ジンさんに対する耐性が低くなりつつある気がする……

 

 呼吸困難になりそうで、目を閉じて落ち着きたいのに、瞼の裏に彼の半裸が焼き付いていてどうしようもない。

 

 スマートなスーツ姿からは想像もできないくらいに、広くて筋肉質で、男性らしい背中だった。

 そして……


 

 その背中にうっすらと――のようなものがあったのを、見てしまった。

 

 

 あれは、一体……


「………………」


 私の知らない、彼の過去。

 私の知らない、彼の痛み。

 

 彼が抱えるものについて、思いを馳せ……

 私は、高鳴る胸を押さえながら、扉をそっと見つめた。



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