4-10「独白を垂れ流すもの」

 伊柄家では代々、車やエアコンなど、機械に関する修理や整備を生業にしてきた。商店の車を修理したり、隣人の空調を整備したりする父を実際に目の当たりにしている。


 兄はそれを継ぐため、学校教育の他に専門知識を叩き込まれていた。もちろん僕は家周りの仕事をさせられた。


「宮司は村外の知識を得て戻ってきた男をよく思わなかった。そこで宮司は、ある子連れの女を男にあてがった。彼女は一度安曇家に嫁いだものの、巫女を生む素質がないと判断され、家を追われた女だった。互いに忌み嫌われる存在だった二人は、すぐに意気投合した」


 父は淡々とした声で、ときおり珈琲を口に含みながら話した。たびたび生まれる間を消費する方法がわからず、僕も彼に倣って珈琲に口を付ける。


 僕たちの外見には遺伝的な繋がりが見て取れるはずなので、周囲からは、珈琲を啜るタイミングが同じの、仲睦まじい親子に見えていることだろう。


「やがて男と女の間には子が生まれた。檜神村では不吉とされる、双子の男児だ。男と妻に対する村の風当たりはいっそう強くなり、一時は家業もままならないほどだった。彼らは話し合いの結果、三人の子どもに外の常識を教えることにした。その知識を使い、村の外でも生きていけるように」


 父がまた珈琲を啜り、対する僕はカップを手に取っただけだった。すでに表面から湯気はなくなり、手の僅かな揺れで生じた波紋が、水面に映る蛍光灯の形を歪めている。


 カップをソーサーに置くとき、間にスプーンが入り込んで邪魔だった。


「男の妻は身体が弱かったから、『妻と子どもを残して出張には行けない』と言えば外出は容易だった。しかし、村人はわずか三つの年を重ねただけの双子、そして六つの娘に厳しい態度を取った」


 気づかれないよう、息を呑む。いつの間にか、電話をしていたサラリーマンがいなくなっていた。


「男が村の慣習に従わなかったことも理由の一つだった。次第に家族は村八分のような状態になり、男の妻は夜道で背後から突き倒されたこともあった」


 慣習に従わなかった。ここで言う慣習とはおそらく、長男と長女を手厚く育て、そのあとに生まれた子を家の労働力として指導する習わしのことだろう。


 元々耕地面積が大きくない村だから、そうやって人口を管理する必要がある。


 カフェのBGMは、話の内容にそぐわない明るさをしていた。村のことを思い出していたせいで、父の背後、ガラスの窓から広がる地上の人混みを非現実的に思った。


 今回の間は長い。父が口を閉じている間に横断歩道の信号が赤になり、再び青く点灯した。


「……子を守るには限界があった。男は村人の信頼を回復しようと必死だった。信頼さえ回復すれば、この村で平穏に暮らせると思い込んでいた。そして男は村の慣習に従い、長男だけを優先することに決めた。双子が十つになるころだった。その頃、妻の連れ子が疫病に罹った」


 父はあるときおかしくなった、と僕は思い込んでいた。


 小学校に通う前のことはあまり覚えてない。でも、村人に無下に扱われた記憶はほとんど残っていなかった。


「男は、あろうことか、これを好機と捉えた。巫女のなり損ないとして忌むべき存在を、自らの意思で見殺しにしたと主張すれば、長男だけでも村民として扱われるのではないかと考えた」


 村を出ることは考えなかったのだろうか。その疑問に対する回答は、聞かずとも自然に導き出された。


 家業を継いだとはいえ、村人から嫌がらせを受けているほどだから、当時は大した売り上げにならなかったのだろう。村を出る金銭的な余裕はなかったはずだ。


「娘が死ぬころ、男は村人の信用を回復しつつあった。もちろん妻との間に諍いもあった。しかし村における居場所づくりに必死だった男に、その言葉は届かなかった。やがて、隠れて看病していた妻にも疫病が感染し、間もなく死んだ」


 僕は黙ったまま、頷きもせず父の話を聞いていた。反応がないことを父が気にする様子はなく、むしろ一方的に言葉を並べるほうが話しやすそうだった。


 父がそうやって楽をするのは気にくわなかったが、僕の側も、真剣に聞いていないと思われている、と思っているほうが自然に言葉を受け入れられた。


「妻は最後に、『子どもを頼みます』と言った。男はせめて双子の長男だけでも救おうと考えた。妻の言葉の真意に気づけず、都合のいい解釈をした。子どもたちが村の外で平和に暮らすという目標すら見失っていた」


 記憶に残る母の姿はどれも優しさを帯びていた。父の話から察するに、僕はたしかに愛されていた。母は最後まで、僕の心配をしていた。


 でも、なるべく言葉を心の内側に入れないように心がけた。父の前で感傷的な気分になりたくなかった。


「ただ、自己を優先し、最後まで村の風潮に抗おうとしなかった。抗ったところで何も変わらない。だから、呪いが本格化した二年前、不作による売り上げの低下により、男は次男を切り捨てることに決めた。それが合理的な判断であると信じ切っていた」


 合理的な判断、と心の中で呟く。口には出さない。


「しかし、男は自らの手で息子を殺すということを受け入れられなかった。せめてもの償いとして、本来なら禁止されている煩瑣の出入りを許した」


 思い返してみれば、田沼商店へ向かう道中で見かける男児は、いつも車のガレージで膝を抱えていた。部屋を使えばいいのではないかと考えたこともあったが、あれはそもそも使うことすら許されていなかったようだ。


 父が些細な救済を施したところで、ありがたいと思うことはない。その原因を作ったのは父自身だ。一方で、恨めしく思う気持ちもない。


「そして数週間前、生贄として宮司の娘を捧げることが決まった。しかしその生贄は、呪いを収める前に死体ごと消えた。自分の次男が連れ去ったという話を男が聞いたのは、巫女の失踪から一日が経ったころだった」


 父がコーヒーカップを持ち上げ、口元へ運ぶ。視線を落としたときに中身が空であることを思い出したのか、カップは口に触れる直前で降下を開始した。


 かちん、と音を立ててカップが着地しても、父の指は持ち手に絡まったままだった。


「男はそのときになり、ようやく過ちに気づいた。捜索隊に参加しながらも、自分が成し遂げ得なかった不条理に抗うということを、実践してみせた息子にただ驚いていた。そして自らが『合理的』と思い込んでいた全ての判断は、自らの弱さが招く諦念から来るものだと気づき、己を恥じた」


 感情が昂ぶってきたのか、言葉と言葉の感覚は先ほどよりも短くなっていた。目の前のコーヒーカップは再び持ち上がり、今度の父は見る前に中身がなくなったことに気づいたのか、カップはソーサーから十数センチの所で動きを停止した。


 たしかに、僕がこれまで下した合理的な判断は、諦めの感情からくるものだった。父も結局は、僕と同じだったのだ。


「……別に、僕だって抗おうとしたわけじゃない。たぶん、生きてていいって思える理由が欲しかっただけだ」


 久しぶりに喉を開いたので、少し、声が震えたようになっていた。父は表情を変えず、「そうか」とだけ言った。


 窓から見える空は、いつの間にかその半分を夜の色に侵食されていた。時計はまだ五時半にも届いていない。間もなく秋が終わり、煩瑣にとっては生命に関わる冬がやってくる。


 でも僕は夕作さんに部屋を与えられているから、この季節の到来を憂えばいいのか喜べばいいのか、わからなかった。


「かごめ様が戻らなければ、檜神村は今後、どんどん不況になっていく。宮司によれば、抑止力がなくなった今、村にどんどん厄が流れ込んでくるらしい」


 陶器のぶつかる甲高い音がして、視線をずらした先、返却口の食器を回収しようとした店員が誤って落としてしまったようだった。幸い、食器が割れた様子はない。


 厄というのは地形的な問題であるものの、夕作さんの言葉がある以上、かごめ様が抑止力となって軽減されていたという可能性も除外できない。だから今後、村が危ない状況にならないとは言い切れない。


「……これは俺の妄想だが、かごめ様は俺たちが思っているような存在ではないんじゃないか」

「どういうこと?」


 思わず父のほうを見てしまった。父は別の方向へ視線を向けたままで、僕は目が合わなかったことに安心している。


「本当に宮司が言うような恐ろしい存在なのだろうか」


 それには返事をしなかった。希望的観測だ、と思う。一方で、それと同時に、ひとつのアイデアが浮かんだ。非人道的ともとれるアイデアだった。易々とそんな考えが浮かんでしまう自分に嫌気が差し、頭を振ってかき消す。


 しばらくして、人集りができていた返却口は、夜の畦道のように閑散とした空間になった。


「柚沙、見捨ててもいい」

「え?」


 思わず素っ頓狂な声が口を衝いて、あまりに大きな声だったせいか、隣に座るスーツの男と目が合った。


 父との会話が始まってから、初めて感情的な声が出た。


「悪かった。俺を許さなくてもいい。村ごと見捨ててもいい。それだけの重荷をお前に課してしまった」


 父はそう言って立ち上がると、「それを言いに来た」、そう付け加えて僕に背を向けた。ふと、父はいつから東京に滞在していたのだろうと思った。


 父がいなくなったカフェで、しばらく窓の外を眺めたまま、動くことができなかった。


 空が真っ黒に染め上げられ、夕作さんの家に帰ろうと考えられるようになったとき、最初に浮かんだ父への言葉は「コーヒーカップくらい自分で片付けろよ」だった。

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