4-9「ホットサンドと珈琲と悪習」

 しばらくあの家に滞在することを夕作さんから許されている。でも、いつまでも世話になるわけにはいかないから、今後のことを見据えるなら働かなければならない。アルバイトを始めるには、おそらく住民票による身分の証明が必要になるだろう。


 今では村人の全員が敵だ。役場で何かしらの処理が必要になるだろうから、村に忍び込んで持ってくるということもできない。


 それに、問題はかごめの戸籍だ。彼女が死んだことにすれば追手はなくなるだろうけど、今後、社会的に様々な制限を受けることになる。就職だけでなく、医療手当を受けることさえままならない。治療費を払えないほどの病気に罹れば、一発でアウトだ。


 最も円満な解決方法は村人を説得することだ。でもそれは、不可能に近い。


 僕たちが東京に来たことで解決した問題はたった一つだけだ。今後の生活とかごめのなかにいる怨霊の存在について、明確な手立ては浮かんですらいない。


「ここまで大変だったね」


 かごめの声を聞いて、思考の世界に浸っていた意識が本来あるべき場所に着地する。その拍子に店内の喧騒が蘇ってきて、自分が喫茶店にいるということを思い出した。


「うん、大変だった」

「ここまで、柚沙に救われっぱなしだったな」

「そんなことないよ」


 実際、僕は自分が彼女を救ったなどとは思っていなかった。僕はただ一人になりたくないだけだった。ある意味救われているのは僕のほうだ。


「柚沙って、物事を損得で考えるから、私ができない非情な判断もしてくれる」

「それ、褒めてる?」

「半分くらいはね。でも私は、そういう柚沙に、その、」


 かごめと、視線を逸らすタイミングが重なった。


「そういう強さに、惹かれてる」


 かごめは斜め下を向いたままそう言うと、今度は胸の内側で堪えるみたいに笑った。その笑顔が愛おしく感じられるほど、僕は彼女に安易な恋心を向けている。


 珈琲を飲み終わり、店内が混み始めてきたので、僕たちは周辺を散歩して時間を潰すことにした。太陽の高度が上がり、陽射しの影響もあってか店の外は肌寒さが気にならない気温になっていた。


「私、いつか死ぬのかな」

「殺される前になんとか止めよう。かごめだけは絶対に助けるから」


 死ぬとか殺されるとか、明らかに物騒な言葉をすれ違う人々が気にした様子はなかった。日頃から喧騒に身を浸して生きているから、都会人は他人の話し声を雑音として処理する特別な技術が身についているのかもしれない。


 僕たちが食事をした喫茶店は、池袋駅からほど近い場所にあったようだった。


 音割れした宣伝の文句を流すディスカウントストアの前を通り過ぎると、横断歩道を渡る大量の人が見える。それはどこかの海岸で見た、巨大な波を思わせるほどだった。


「あの子はさ、村のみんなを思って生贄になる覚悟をしたはずなのに、なんで村を恨むようになったんだろう」

「かごめ様の目的も結局わからないままだしね」


 そう曖昧に答えながら、村を恨むようになっても仕方がない、と思った。


 夢を見たり、生前のかごめ様の話を聞いたりして、彼女がどんな生い立ちを辿ってきたのかはなんとなくわかった。


 僕だって家族における自分の立ち位置を自覚し、家のために生きるという役割を全うしてきた。でも、だからといって現在の僕は家族を大切に思っているわけではない。


 つまり、自分の使命だと思い込んで生贄になったあと、心変わりしても不思議ではない。


 考えたところで何か解決するわけではないし、夕作さんが調べた文献ではそれ以上のことはわからない。


 適当に周辺を散策し、かごめを病院に送り届けたあと、僕は一人で夕作さんの家に戻った。誰もいない一軒家というのは新鮮なようでいて、実は何年も経験している。


 夢のなかで、かごめ様と話すことはできないだろうか。これまで、二種類の夢を見た。これらには、少女の視点、つまりは記憶の追体験という共通点がある。僕は自分が自分であることを認識しながらも、たしかにかごめ様の記憶を継いでいた。


 夢を見ているとき、痛み、のようなものが絶えず流れ込んでくる。意識が溶け合ったような感覚だった。そのとき僕が自分の意識を保ち、身体の支配権を獲得できれば、独立したかごめ様の意識と対話ができるのではないか。


 実際に頭のなかで組み立てているとき、突然馬鹿らしくなった。漫画のキャラクターが、自身に封印された悪者と心の中で会話する描写があるが、僕の妄想はきっとそれに憧れる子どもに近い。現実はそれほど上手くはいかないだろう。


 インターホンの電子音がリビングを駆け抜けていったのは、ちょうど僕がその結論に至ったころだった。かごめが帰ってくるには早すぎる。忘れ物でもしたのだろうか。


 立ち上がり、玄関に向かう。鍵を開けて扉を開いたとき、そこに立つ人物を見て僕はすぐに後悔した。


 立っていたのは父だった。


「待て、柚沙」


 すぐに扉を引いたので、「柚沙」の部分は籠もったように聞こえた。とはいえ扉には手指の挟み込み防止の細工が施されていたようで、僕が引いた扉は、閉まる直前で挑発するみたいに跳ね返る。


 それでも力任せに引っ張ると、扉はあっけなく閉まった。


「柚沙、話したいことがある。俺の他に檜神村の人間はいない」


 扉の磨りガラスになった部分から父のシルエットが見える。鍵を捻ると、扉がロックされる乾いた音が玄関に響いた。


「疑わしいならこのままでもいい。聞こえているだろう」


 扉一枚を挟んで、一応、言葉に耳を傾ける。返事の声は出なかった。向こうで、父の息を吸い込む気配がする。


 僕は靴箱の上に乗っていた花瓶を手に取り、数センチ程度だけ、ゆっくりと扉を開いた。父が目を丸くしていた。


「かごめはここにいない。でも帰ってきたかごめを父さんに会わせたくない」


 村民の追っ手が止んだという確証がなかったとはいえ、実際にかごめが村民の姿を見たら不安になるだろう。夕作さんに迷惑を掛けるわけにもいかない。


 多少のリスクはあるが、ここは広島とは違い、路地裏にさえも人の気配が山ほどある。村人と結託していても、人の目がある以上、強引な手段には出られないはずだ。


「駅前の喫茶店に行こう。人目が多いほうがいいだろう」


 父は表情を崩さずにそう言った。肩掛けのバッグが一つとはいえ、刃物を忍ばせるには充分な大きさだ。


 僕は父に少し待つように言い、花瓶を置く代わりに道具箱からカッターナイフを取り出して、ポケットに忍ばせた。


 * * * * *


 池袋駅の周辺はさきほどと変わらず、圧倒的な物量の人の目があった。一歩進むたびに人とぶつかる可能性を考慮しなければならない環境は、長く続くとそれなりの精神的疲労をもたらすものだと気づく。


 駅前の横断歩道の途中には喫煙所があり、離れていても煙草の乾いた匂いがした。父の無防備な背中を追って歩き、途中で父が振り返ったときは視線を逸らした。


 駅前の喫茶店と言うから夕作さんの家の最寄り駅を使うのかと思っていたが、どうやら父は、移動時間の短縮よりも人の目の多さを優先したようだった。これだったらたしかに、村人がいても手出しはできない。


 近くに交番もあるようだし、激しい争いが起きればすぐに警察が駆けつけるだろう。


 父が入ったのは、入口に黄色い雨よけの付いたカフェだった。名古屋駅でも大量に見かけたから、おそらく全国に展開しているチェーン店なのだろう。


 鹿児島でも見かけたような気がするが、明確には思い出せなかった。


「腹は減ってないか」

「さっき食べた」

「そうか。飲み物は」

「珈琲」


 父はカウンターの前に立つと、二人分の珈琲、それからホットサンドを注文した。父が自分にものを買い与えるのは珍しい。何か裏があるのかもしれないという思いが拭えなかった。


 二階席からは地上を歩く大勢の人が見下ろせた。席に着くなり「煙草を吸う」と言って喫煙ブースに向かった父を横目で見やると、彼は背中を丸めて新品の煙草を開封していた。ふいに合ってしまった目を、慌てて逸らす。


 本日二杯目となる珈琲は変わらず美味しかった。机で頬杖をついて父を待つ。五分ほどして、父は煙の匂いを引き連れて席に戻ってきた。


「調子は」

「変わりないけど」

「そうか」


 敵意を抱いているからか、どうしても言葉の末尾が棘っぽくなってしまう。村にいたころはそんなことなかったはずなのに。かごめを守るという強い使命感が僕にそうさせるのかもしれない。


 父がホットサンドにかぶりついて咀嚼している間、僕たちのテーブルにはなんとも言えない沈黙が乗っかっていた。


 席のほとんどは埋まっているものの、今朝の喫茶店ほど話し声は聞こえない。熱心にノートパソコンを叩いている人がほとんどで、残りは読書をしているか、スマートフォンを触っている。


 言葉を発しているのは、窓際のカウンター席で電話をしているスーツの男と、その対角線上のテーブル席を陣取る三人の中年女性だけだった。彼女らが話す夫の愚痴を聞いている間、父はあっという間にホットサンドを完食した。


「用件は?」

「かごめは元気か」

「元気じゃないよ」

「そうか」


 父がコーヒーに口を付けたので、僕もそれに続く。いまいち要領を得ない問答に、苛立ちよりも先に、胸の内側で不安が沸いた。ここで僕を足止めする作戦なのではないか。その間に夕作さんとかごめを襲う計画だとしたら。


「用がないなら帰るけど」


 がたん。席を立った拍子に膝がテーブルに触れ、珈琲の真っ黒な表面に波紋が立った。父は黙ったまま、じっとテーブルの天板を見つめている。


 それから息を吐き出したかと思うと、今度は観念したかのように口を開いた。


「昔、ある男が檜神村を出た。全ての情報が共有される狭いコミュニティに嫌気が差した。そして何より、かごめ様という存在が恐ろしくて堪らなかった。男は東京へ行き、勉強の末、車の販売メーカーに就職した」


 これが、僕をここに留めておくための与太話である可能性もある。


 僕が立ち上がったのも気に留めない様子で、父が話を続けた。


「男は村を出て数年もしないうちに父が倒れたという知らせを受け、村に帰らざるを得なくなった。間もなく男の父親は死に、男は家業を継ぐことになる。継ぎたくはなかったが、父がどれだけこの店を愛しているかを知っていたから、男は割り切って店を続けた」


 父は昔から話をするのが苦手だ。


 そんな彼が長々と言葉を紡ぐのは、何か別の意図があるのかもしれない。話に出てくる男、というのが父を表しているのであろうことはすぐにわかった。


 迷った末に椅子を引き、再び腰を下ろす。

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