4-8「安易な恋心」
目を覚ましてリビングに出ると、この日はメモの他に、一万円札と合鍵が置いてあった。メモは、近くに喫茶店があるから気晴らしついでに食事をしてきたらどうか、という内容だった。丁寧に、喫茶店までの簡単な地図まで書かれている。
ここは夕作さんに甘えることにして、軽く準備を済ませ、カフェを目指して家を出た。施錠したことを確認したとき、外の肌寒さに背筋が震えた。
鹿児島を発ってから気温はみるみる低下し、数日のうちに半袖ではすこし無理があるほどになっている。とはいえ道を歩いていると半袖の人ともすれ違うため、周囲から不自然に映ることはないだろう。
喫茶店は居心地のいい室温に保たれているだろうから、あと数分の辛抱だ。
東京は狭い道が多い。家と家の間に、かろうじて道として成立するアスファルトが敷かれているだけだ。歩道を表す白線が道の両脇にあるものの、その間は二メートルにも満たない。前からやってきた車は窮屈そうに白線を跨いでいた。
規則的な足音が後ろから聞こえて、振り返ると、ノースリーブのウェアとサングラスを着用した初老っぽい男がランニングをしていた。男はペースを崩すことなく僕たちの横を通過し、次の突き当たりを右折していった。
「あ、かごめ、待って。行きすぎたかも」
「じゃあ次の角を曲がろう」
「そうだね」
充分な休養を取ったことにより、精神的にもいくらか余裕が出てきた気がする。今までは不安の象徴のようだった知らない街並みも、今では目新しいものとして楽しむことができた。突き当たりを右折しても、先ほどのランニング中の男はもう見当たらなかった。
その先も、不自然に狭い道が続いた。
田舎住みの僕でも池袋や新宿、渋谷といった地名は知っているが、夕作さんが住んでいるこの土地の名前は初めて聞いた。でも、現地に到着してからというもの、電柱やマンションに刻まれたその地名がいやというほど目に入ってくる。
一方、檜神村でそのような表示を見たことはなかったから、都会の人たちはある意味で僕たちよりも自分の土地に誇りを持っているのかもしれない。
しばらく歩いていると、今度は継ぎ接ぎだらけの道に差しかかった。おそらく割れた部分を修復し続けたことで、色合いの異なるアスファルトが点在するようになったのだろう。その道路はモザイク画のようにも見えた。
「あ、掲示板」
「私たちの村にもあったね、ああいうの」
「池田たけおのポスターが半分くらい占めてるやつだ」
「そうそう」
立ち止まり、しばらく僕たちは並んでその掲示板を眺めた。一番大きいのは病院の広告で、次に大きいのは「広告主募集」だった。他には家事援助スタッフや、パソコン教室の会員の募集が貼り出されている。
「としまくけいじばん」
掲示板上部の表示をかごめが読み上げたころにちょうど車がやってきたので、端でやり過ごしたあと、僕たちは再び喫茶店に向けて歩き始めた。
「さっきの病院の広告、夕作さんのところかな」
「あ、たぶんそうかも」
かごめはこのあと、夕作さんの病院で精密検査を受けることになっている。その結果が彼女の命を繋ぎ止めることになる可能性もあるから、検査を受けるに越したことはない。
仮に何らかの方法でかごめ様を祓えたとして、怨霊が抜けた彼女の身体がどうなるのかわからない。心臓が動きを再開しない可能性だって充分にあり得る。かごめ様が急に身体を抜けるなんてことも、ないとは言い切れない。
だからかごめの現状を調べることが、僕たちにできる数少ない抵抗だった。
かごめの診察は十四時からだ。それまでに病院に行けばいいから、時間は飽きるほど余っていた。
路地を抜けて大通りに出ると、それまでひっそりとしか感じられなかった人の気配を全身に感じられるようになった。ガードレールの内側だけでも、犬の散歩を初めとした様々な人の生活が際限なく広がっている。
大通りを走る車の種類も様々だ。道路の端には自転車専用通路が設置され、スタイリッシュなヘルメットを被ったサラリーマンらしき男が爆速でロードバイクを漕いでいる。
地を震わすように走るトラックのナンバーは大阪や福島など、遠くの土地のものが刻まれていた。僕はその光景にしばらく呆然としていた。
横断歩道を渡り、大通りを逸れた石畳の道にその喫茶店はあった。キャンパスのような黒板には「お持ち帰りできます」という可愛らしい文字が書かれている。甘い香りが鼻を掠めたため、ここに至るまでに和らいでいた空腹が息を吹き返した。
店内は白を基調とした明るい内装をしていた。ところどころに置かれた可愛らしい小物からも、若い女性を客層のターゲットにしていることが窺える。
実際、テーブルのいくらかは若い女性で埋まっていた。
僕やかごめのために、夕作さんは若者が好きそうな喫茶店を見繕ってくれたのだろう。いや、もしかしたら彼はここの常連なのかもしれない。甘い物に目を輝かせる夕作さんを想像しようとして、失敗した。
僕たちはそれぞれ、フレンチトーストを注文した。
かごめはそれが何かわかっていない様子だったが、運ばれてきた料理を口にすると途端に口元をほころばせた。そういえば、彼女が洋食を口にする機会はさほど多くないはずなのに、ナイフとフォークを上手く使うのはなぜだろう。
その疑問は「会食があるから」という彼女の回答であっけなく解決した。
「疲れるよ、会食」
「そうなの? 美味しいものを食べられるイメージあるけど」
「全然だよ。堅苦しい場所で食べるごはんなんて美味しくない。柚沙と食べたハンバーグのほうがずっと美味しかった」
そう言って目を見つめてくるかごめには、なんとなく照れくさかったので、「そうなんだ」、できるだけ平淡に聞こえるように言った。「そうだよー」、春の陽射しのような柔らかい返事が返ってきた。
フレンチトーストは濃厚なバターの風味と優しい蜂蜜の甘味がシンプルに絡んで、澄んでいた脳がさらに覚醒するほど美味しかった。
口に残った甘味をセットの珈琲で流すと、思わず肺から空気が漏れる。かごめは終始弾けるような顔でフレンチトーストを頬張っていた。
いつまでもこんな日が続けばいいのに、と思う。
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