4-5「見殺しにした命と救える命」

 花の匂いが薄く漂っている。重たい瞼は開いたそばからくっついて、浅い眠りの世界から僕は抜け出せなくなっていた。夢と現実の境目がわからなくなるけど、目が覚めたと自覚したときには感情の余韻だけが残り、夢の内容は記憶から抜け落ちている。


 悲しい夢を見ていた、ような気がする。


 隣でかごめはまだ眠っていた。彼女を視界に捉えた瞬間、抗えないほどの瞼の重みはなくなった。全く動きを見せない彼女から、目が離せない。


 閉じられた目に飾られた、綺麗な睫毛に日の光が乗っかっている。美しい、というよりあどけない曲線を描く頬が、柔らかい光で甘ったるく輝いている。


 彼女がこのまま目を覚まさなかったら、どうしよう。


 久々に安定した眠りに就いたおかげで、思考はここ数日のうち最も冴え渡っていた。だから、昨夜声を掛けても揺すっても起きなかったかごめを前に抱いた心配は、僕が意識せずとも簡単に言語化された。


 彼女が死んだ場合、死因は何になるのだろう。呪いで死んだことになるのだろうか。


 医学的な死因に呪いは存在しない。そうなれば、直接的な死因は絞首、もしくは儀式の際に飲む毒酒になるはずだ。彼女を追いやった人たちが法で裁かれてほしいという気持ちより強く、かごめを二度も死なせたくないという思いがあった。


 あの事故現場は結局どうなったのだろう。誰も意識を取り戻さないままだったら、あの奥まった場所で車が崖から転落したことになんて誰も気づかない。


 あれは間違いなく、僕が見殺しにした。


 喉に引っかかるような気持ちはあるものの、悪いことをしたとは思わない。かごめを救うためには必要なことだった。


 かごめが帰らないと村が危ない、という。危ないというのが具体的にどういう意味なのかはわからない。でも彼女は事故のことも村のことも重たく考えているだろうから、そういう責任みたいなものは僕が全部引き受けてやるつもりだった。


 トイレを済ませるためにリビングを通ったとき、テーブルの上に書き置きがあることに気づいた。その下にはラップ掛けされた目玉焼きが二皿、置いてある。メモは、仕事に行ってくるからこれを食べていてという内容だった。


 視線が目玉焼きから机上を移動し、デジタル式の時計に着地したとき、十四時という表示に思わず声が出た。眠りに就いたのは日付を越える直前だったから、一日の半分以上を睡眠に費やしたことになる。


 これまではやるべきことが明確にあり、僕たちは目前に迫った障害を乗り越えるためにひたすら進んできた。でも現在、僕はかごめの回復を待つことしかできない。


 普段の自分がどうやって時間を潰していたか、とうに忘れてしまった。


 家をうろつくのも悪いし、外に出ようにも鍵を持たないから、トイレを済ませたあとは布団に戻ってかごめを見守ることにした。


 大変なことになったな、と今さらになって思う。今さらすぎて自分で笑ってしまうほどだけど、この状況を「大変なこと」と客観的に考えられるほど余裕が出てきたと考えれば、案外悪くない。


 かごめがなかなか目覚めないので、僕は先に一人で朝食を摂ることにした。時間としては昼食と呼ぶのも遅すぎるが、起きて最初に摂る食事が朝食なのだと僕は思う。


 彼女を揺すって起こす方法も考えたが、やめた。


 それで起きなかったら、ここまで張り詰めてきた緊張の糸が簡単に緩んでしまう気がした。それに、彼女のいない残りの人生をどう過ごしたらいいか、想像が付かなかった。


「あ、柚沙」


 そんなことを考えながら電子レンジを開いたとき、背後からかごめのあっけからんとした声がするから、安堵のあまり思わず笑ってしまった。「おはよう」、目を擦っている彼女に声を掛ける。「おはよう」、困惑の籠もった声が返ってくる。


「夕作さんの家だよ」

「……あ、そっか、叔父さん帰ってきたんだ。よかった」

「お風呂、好きに使っていいって」

「先にごはん食べたい」


 布団から出てきたかごめは、まだよそ行きのワンピースに身を包んだままだった。


 二つぶん目玉焼きを電子レンジで温め、茶碗に白米をよそう。ダイニングテーブルで向かい合って食事を摂る間、僕は今朝までの出来事を話した。


 とは言っても夕作さんとかごめを運んだこと、宮司が来たらしいことしか話すことがなかったため、話題はすぐに雑談に切り替わった。


 食事を終えたかごめに夕作さんが用意してくれていた着替えを渡し、風呂場へ案内した。使わなくなったものとはいえ、着られるものならなんでもありがたい。若干のオーバーサイズだが、寒さを凌ぐには充分すぎる。


 夕作さんが帰ってきたのは、リビングのデジタル時計がちょうど十九時を示したときだった。


「かごめ、体調はどうかな?」

「結構よくなってきたかも」

「それはよかった」

「お世話になります」


 かごめがわざとらしく恭しい口調で言い、夕作さんは「遠慮しないで」と微笑んだ。


「寿司、取ってきたよ。話の前に、まずはお腹を満たそう」

「何から何までありがとうございます」


 口では丁寧な口調を紡ぎながら、寿司という単語に気持ちが舞い上がっていた。


 村の外へ旅行を繰り返した記憶のうち、両親と食べた寿司のことは鮮明に思い出せる。どこで食べたかは忘れてしまったが、あれは格別だった。


 準備を手伝い、かごめと並んで椅子に座る。かごめは寿司を食べたことがなかったのか、口に含んだ瞬間、弾けるような歓声を上げた。たしかにあの村で出てくる魚は川に住むものばかりだ。海水魚と淡水魚では味が違う、と思う。


 最初に口に運んだサーモンは脂が乗っていて美味しかった。かごめにつられてなのか、数時間前に目玉焼きを食べたはずなのに、箸が止まらない。そんな僕たちを見て夕作さんが微笑んでいるから、すこし恥ずかしくなった。


「さて、かごめ様とは何者か、という話だね」


 皿が綺麗になったころ、夕作さんがそう言った。

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