4-3「絶望と希望の絶対値」
目が覚めると濃密な夜の匂いがして、顔を上げた先、綺麗な満月が浮かんでいるのが見えた。時計を持っていないので、現在時刻はわからない。方角もわからないから、月の位置から時間を特定することもできなかった。
雨戸を挟んだ向こう側に、人の気配はなかった。庭とはいっても玄関から見える位置にいるし、夕作さんが帰ってきたとしたら、物音で嫌でも目を覚ますはずだ。
かごめの体重を支えたまま周囲を見回してみる。まだ、電車の音はする。終電よりは早い時間だ。塀を跨いだ向こう側を、数人の男が笑い声を上げながら通り過ぎていった。
息を吐き出し、かごめに視線を移す。
「かごめ」
彼女は額に薄く汗をかいていた。暑苦しそうにしている様子はない。表情は安らかだった。
「かごめ、大丈夫?」
かごめは返事をしなかった。身体は冷たいままだった。触れていると熱を際限なく吸い取られる気がして、背筋に悪寒が走る。
「かごめ?」
身体を揺すっても彼女は目を開かなかった。かごめの額を汗の雫が伝い、縁側の色褪せた木に円形の染みを作る。嫌な予感、言語化されそうなそれを、頭を振ってかき消した。まだ輪郭を獲得していない心配というものは、言語化しなければ絶望には至らない。
彼女を縁側に寝かせ、玄関へ回り込む。車はやはり停まっていない。インターホンを鳴らす。部屋のなかから間抜けな電子音が聞こえる。もう一度ボタンを押し込む。返事はなかった。
不審者扱いされても困るので、周囲に人の目がないことを確認し、かごめの隣に戻った。彼女の上体を起こせるまで体力は回復してなかったため、太股の上に頭を載せるに留めておいた。
空を見上げる。星は見えない。もしかしたら夕作さんは、もうこの家には住んでいないのかもしれない。そんな考えが浮かぶ。浮かんだところで別の解決策はない。
背後から迫り来る絶望の気配を感じながら、僕はかごめを眺めたまま、じっと座って待つことしかできなかった。
夢のなかで、僕は「ちよ」と呼ばれた。彼女は過去にかごめ様に捧げられた人間だろうか。それとも、かごめ様の元となった人間か。
「かごめ」とはどのような由来だろう。かごめ、という言葉が登場する童謡があったはずだ。かごめ、かごめ。篭のなかの鳥は……、と続くから、「囲め」が語源だろうか。
どちらかと言えば、祠に封じ込めて囲っていたのは村人側だ。だから怨霊の名前を「囲め」とするのには違和感がある。推量などを表す助動詞を付けて「篭め」、というのはどうか。篭目という、伝統的な網目状の模様もある。模様が由来、というのも違う気がする。
そうだとしたら、「加護め」というのがしっくりくる。加護どころか災いをもたらす存在と考えられているが、「め」が推量の助動詞だとしたら辻褄が合わないこともない。むしろ、これが正しいとさえ思えた。
それに、あの夢のなかで「ちよ」と呼ばれていた少女に感じた献身的な儚さが、「加護」という言葉の親和性を強めているのだと思う。
そのとき、視界の端で光が点灯するのが見えた。視線を移動させる。あ、と言った声が互いに重なった。玄関に夕作さんが立っていた。
「えっと……?」
十数メートルの距離の先で、夕作さんは戸惑った表情をしていた。改めて顔を合わせると非現実的な感じがして、頭の中で下書き保存していたテキストが完全に形を失った。
「あ、えっと、柚沙です、檜神村の」
「ああ……」
夕作さんは少しの間目を丸くすると、僕たちの背景を独自に解釈したのか、「よく来たね」優しさの模範解答みたいな表情で言った。以前会ったときに比べて若干老けてはいるが、眼鏡を掛けた優しそうな面持ちは、間違いなくあのときの夕作さんだった。
「少し待っててね」
夕作さんは部屋に上がると、少しの物音のあと、縁側の雨戸を開放してくれた。室内の灯りが目に沁みて、涙が出そうになる。あ、ついに東京に来たのか、という複雑な思いが沸き上がって、喉が震えた。
「遅かったね」
「えっと……?」
まるですでに来ることを知っていたかのような口ぶりだ。思わず顔中の力を抜いてしまった僕を見て、夕作さんがくすりと笑う。
「兄に会ったんだ。……ああ、村の宮司ね」
「宮司さんと?」
「もちろん追い返したよ」
「あ、ありがとうございます」
そういえば、あの車の中で「宮司は東京から帰っていている」と誰かが口にしていた。芋づる式に浮かんだ事故の光景は、頭を振ってかき消す。
宮司とタイミングが合わなかったのは運がよかった。それもそうだろう。僕たちだってたどり着けるとは思っていなかった。それに、状況を察した夕作さんが彼らを追い返してくれていたのもありがたかった。
「本当に生贄にされたんだね」
眼鏡の奥で、夕作さんの目がぐっと細くなる。そこで僕はようやくかごめの容体を思い出した。
「あの、かごめがっ」
「大丈夫。毒酒の影響だろう。死ぬことはないよ」
「でも、返事しなくて」
「とりあえず、布団に運んであげよう」
夕作さんはそう言ってかがみ込むと、かごめの腕を自らの首に掛け、抱えるように持ち上げようとした。持ち上げようとして、失敗した。苦笑いを浮かべて、僕を見る。
「昔は持ち上げられたんだけどね。柚沙くん、申し訳ないが二階の部屋から担架を持ってきてくれないか」
「はい」
場所の詳細な説明を受けて二階へ駆け上がり、指示にあった部屋のドアノブを引く。担架はすぐに見つかった。両手で抱えながら、壁にぶつけないよう、気をつけて階段を降る。
夕作さんに差し出すと、「悪いね」、彼は目尻に皺を寄せて笑った。
居間の隣には仏間があり、そこにかごめを運んだあと、布団を敷いて彼女を寝かせた。
「あの、病院とか連れていかなくて大丈夫なんですか?」
「旅の疲れが出ているんだろうけど、おそらく本質的に病院は意味がないと思うよ。かごめが起きたら、解毒剤を飲ませよう」
そういえば、生贄として捧げられる際、毒酒を飲まされるという話だった。その毒酒がどういったものかはよくわからない。
病院に行って治るものなのか、という懸念は僕にもあった。かごめは身体の不調や病気ではなく、呪いのせいだ。
本質的に意味がないというのは、呪いを祓うなどの処置をしなければならないということだろう。
「帰りが遅くなってすまないね」
「いえ、こっちこそ急に押しかけて申し訳ないです」
「まずは腕の手当てをしよう」
夕作さんに言われて、僕は約一日ぶりに自分の怪我のことを思い出した。包帯に目を落とすと、一部が赤く滲んでいる。いつからこうなっていたのかはわからないが、こんな状況では電車でかなり人の目を引いていたことだろう。
「この包帯は自分で?」
「いや、えーっと……」
鹿宮さんのことをなんと表現すればいいかわからず、言葉に詰まってしまった。結局はここに至るまでの経緯を話すことになったものの、夕作さんは最後までしっかりと聞いてくれた。
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