4-2「ずっとこっちで暮らしていけたら」
しばらく公園で休んだあと、彼女の手を引いて夕作さんの家を目指した。駅員は十分もかからないと言っていたが、今の僕たちのスピードではもう少し時間を見積もる必要がありそうだった。
夕作さんが帰っていなかった場合、しばらくの間は家の前で待つことになる。定時に退社するとして、帰ってくるのは七時ごろだろうか。途中で腹が減るかもしれないが、胃に入れる物を買うだけの金額は残っていない。
十円玉が三枚と、五十円玉が一枚。ポケットを鳴らしながら、家々の隙間を縫って歩く。
東京は身動きが取れないほど人が多い、と僕は言った。しかし、実際、目の前の景色は、人工物ばかり映るものの人の姿は少ない。
かごめは正面に視線を固定したまま、人の少なさに言及することなく歩き続けた。
駅員の言葉を思い出しながら、頭のなかに空想上の地図を作り、歩く。村人の待ち伏せを警戒してみたが、周囲は犬を連れた老人が散歩をしている程度で、ここに檜神村の気配はまったくなかった。
腹の底を揺らすような音がする。音につられて、顔を上げる。あまりの眩しさに目を細める。光の量を調節すると、飛行機が見えた。
「あ、着いた」
かごめが立ち止まって、淡々とした調子で言った。「安曇」という表札のついたその建物は、神社の親族らしさをまったく感じない家だった。チャイムを押し、様子を窺う。
「車、ないね」
かごめが言ったとおり、車庫と思われるスペースは空っぽになっていた。車で出ているのかとはじめは思ったが、よく見ると埃を被った脚立があったり、タイヤの痕がなかったり、そもそもここに車を停めていない様子が窺える。
「柚沙、探偵になれるかも」
僕の説明にかごめが笑いながらそう言ったころ、インターホンの呼び出しがタイムアウトになった。
「あ、庭がある」
「本当だ」
「叔父さん帰ってくるまで、そこで休ませてもらおうよ」
「勝手に入っていいのかな」
外側からは塀でよく見えなかったが、庭と思しきスペースには低木が植えられており、縁側のような造りさえあった。低木は小さな花を咲かせており、太陽の光を受けて燦々と輝いている。その花からは、甘くて優しい匂いがした。
「金木犀の匂い」
僕が匂いにつられていることに気づいたのか、縁側に腰掛けたかごめがぽつりと呟いた。「なにそれ」と僕は問い返す。おそらくあの花のことだろうが、村では見たことがないため、彼女がどこでその知識を手に入れたのかわからなかった。
「あの花の名前。昔、東京に住んでた親戚が、金木犀の香水をくれた」
「東京に親戚なんていたんだ」
「うん、分家の人」
分家、と僕は繰り返す。そういえば、村を出た夕作さんは分家に匿われたという話だった。
縁側と室内は強固な雨戸で仕切られていて、中を覗くことは叶わなかった。
かごめの隣に腰を下ろしたとき、木の軋む音を身体に伝わった振動で聞いた。縁側の表面に比べ、日焼けしていない側面はより鮮やかな色をしている。それに、防水の加工が落ちてしまったのか、指で触れるとざらざらした木の筋っぽい感触があった。
この縁側はあまり使われていないのかもしれない。このまま体重を任せ続けるほどの信頼性はないように思えたが、一度下ろした腰を上げるほどの体力は残っていなかった。
「村、戻らないといけないのかなあ」
塀を越えて吹き込んできた風が、身体の露出した部分から熱を奪っていく。さきほどは動いていたからなんとかなったが、こうして座っていたら、いつかは熱を全て奪われて死体のようになるかもしれない。
「別に、戻る必要はないと思うよ」
「そうかな」
「うん、そうだよ」
子どもの甲高い声を発端として、塀の向こうになにやら騒がしい雰囲気を感じた。頭頂部だけ見えるのが三人、おそらく大人の女性だろう。しばらく音を聞いているうちに、幼稚園児の集団が散歩で横切っているのだと気づいた。
東京だと住宅街の真ん中を散歩するらしい。気づけば、そんなどうでもいいことを考えていた。
庭にあるプレハブの物置は半開きになっており、隙間から農具や箒が覗いていた。農具はかなり錆び付いているし、箒は先端が片側に流れている。
使い古された上に、現在は全く使われていないことが見て取れた。
「でも、村のみんなが危ないって」
「かごめを脅すために言っただけかも。どちらにせよ、かごめが犠牲になる必要はないよ」
うん、とかごめは頷いた。彼女との交流が短いとはいえ、糸を引くようなこの頷き方がどんな意味を持っているかくらいはわかる。彼女は、自分のために村人を危険にさらすことに納得していない。
「犠牲を出さなきゃいけないなら、私ひとりで済むほうが絶対にいいって、覚悟を決めたはずなのに」
「うん」
「やっぱり、難しい」
庭の隅に小皿があって、よく見ると、白い塊がこびりついていた。おそらく、かつては塩を盛っていたのだろう。今では枝や枯葉の欠片が混ざり、一部が黒ずんで見える。あの状態でも厄除けとして機能するのだろうか。
「なんで私が死ななきゃいけないんだろうって、思ってた。でも、元からそうなるために生まれてきたから仕方がないって、自分を納得させてたの。でも、私、死ぬのが怖い。一回、死んだのにね」
耳を澄ませてみると、電車の音が聞こえた。乗っているときもそうだったが、電車のリズミカルな音は睡眠を誘うのにちょうどいい。
横を見ると、かごめは虚ろな目をしていた。
「……ずっと、こっちで、柚沙と一緒に暮らしていけたらなあ」
かごめは僕に寄りかかって、肩に頭を乗せたきり、喋らなくなった。僕は、彼女の言葉に対する最適な答えを考えている。
現実的に考えて、僕たちが二人で村から離れて暮らすなんてこと、実現可能なのだろうか。
死ぬのが怖い、とかごめが言った。それが普通だ。自分が消えてなくなることは誰でも怖い。それなのに彼女は生まれが選べないから、生贄として殺されることを受け入れなければならなかった。
でも、そんなのおかしい。今なら思う。どうして押し付けられる側が自分の権利を手放して、理不尽を受け入れなければならないのだろう。
「……今なら、いい夢が見られそう」
不幸に抗う権利はきっと誰にでもあって、でも権利があったところで力が及ばないから、強大な力を前にして僕たちは黙って従うしかなかった。かごめが死を恐れながらも、それをどうしても受け入れなければならないことが、悲しくて仕方がなかった。
大丈夫。何があっても一緒にいるから。頭に浮かんだ言葉を口にするのは気恥ずかしかったし、かごめは眠りに就いてしまったようだから、次の機会に取っておくことにした。かごめはまるで死んだかのようだった。
空を見上げる。何度目かはわからないが、飽きるほど繰り返したその動作を、また繰り返す。空は青かった。あまりの美しさに目眩がする。眠気が限界に近づいていた。
「ちよ」
え、と訊き返した。声の主はわからなかった。いつの間にか僕は檜神神社の祠を目の間に立っていた。ここは夢の中だとすぐにわかった。
そして僕は、何度もこの場所に訪れている。村を出て以来、かごめと同時に眠る時間、毎回。
森を作る樹木の葉が表面で鮮やかな緑を反射し、視界の解像度が押し上げられたようになっている。身体の浮遊するような心地があって、僕はゆっくりと立ち上がった。
「千代」
ああ、そうだった。自分の名前は千代だったかもしれない、と思う。胸の内側が締め付けられるように痛んだ。走れば届く距離に男性が立っていて、じろりとこちらを見る。
自分は生贄になるために生まれてきたのだった。村の厄災を鎮めるにはそれが必要だった。
死ぬ運命だから、村人に愛されなかった。でも、死んだら愛されるような気がした。命を引き替えにすれば村民は安心し、自分は必要とされる。生まれてきたことに、意味ができる。
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