第4章『もしも二人で生きていけたら。』

4-1「平和でゆるやかな東京の景色」

 横浜駅、ではなく数駅先のロータリーで鹿宮さんと別れたのは、時計が午前八時を指すころだった。この駅には二種類の路線しか通っていないようだが、駅舎はかなり大きな造りをしている。


 通勤ラッシュに噛み合ったのか、辺りは人の姿でいっぱいだった。


 かごめが駅員に夕作さんの住所を言い、そこまでのルートを調べてもらった。業務というより親切心に甘えて教えてもらった夕作さんの最寄り駅までは、たった一度の乗り換えで済むらしい。


 親切なことに、駅から夕作さんの家への行き方まで教えてくれたので、僕たちが疲労困憊の身体を引きずって道に迷う、なんてことにはならずに済みそうだった。それに、駅から家までは歩いて十分もかからないらしい。


 二人ぶんの切符を買うと残金は八十円になった。ポケットのなかで小銭がじゃらじゃらと音を立てる。空色の線が入った電車に席の空きはなく、隣の男と身体を密着させる形になりながら、乗り換えの品川駅まで立ったまま電車に揺られた。


 扉の上には二つの車内モニターが設置されており、片方は各駅までの所要時間、もう片方はテレビのコマーシャルのような映像が流れていた。続いてニュース、簡単なクイズが順に流れ、僕たちが下車するころに二週目が流れ始めた。


「外回りっていうほうだって」

「どっちだろう」


 東京は人が多かった。どの乗り口にも人が列を成していて、窮屈そうな電車から開放された人たちは、ホームに足を付けてからもまだ息苦しそうな顔をしている。でも、広島駅や名古屋駅も、多いときはこれくらいの密度だったと思う。


 頭のなかで比べてから、今度は午前九時を示す黄色い時計と目が合った。たぶん、もう通勤ラッシュは終わっている。


 目的の駅で改札を出たあと、駅員に教えてもらったとおり、駅舎を背にして右側の道を進んだ。出口の正面は大通りが横切っており、ロータリーのようなものは見当たらなかった。東京のように建造物がひしめき合う場所では、できるだけ土地を節約する必要があるのだろう。


 駅前の道は橋のような造りになっていたようで、手すりから身を乗り出すと、先ほどまで乗っていたのと同じ種類の電車が見えた。


 かごめの横に並び、彼女の負担にならないよう、できるだけゆっくりと足を動かす。


 信号を渡った先、正面に巨大な建物があって、ガラス張りの表面に反射した日光に意識が眩んだようになった。


「大きい建物。柚沙、あれ、なんだろう」

「いっぱいあるよ。大きい建物」

「道路の、向こうにあるやつ。敷地が広そう」

「あ、大学って書いてある」


 レンガタイルの道の真ん中には、黄色い点字ブロックが敷かれていた。歩道と道路の間に、褐色の柵が設けられている。その艶やかな表面で、日の光がくつろいでいる。


 横を通り過ぎたバスが、数十メートル先のバス停で停車した。僕はバスが通った風の余韻と、ガソリンのむせ返るような匂いを全身で受け止める。


 僕たちがバス停に達するよりもずっと早く、緑色をしたバスは発車してしまった。


「叔父さん、いるかな」

「今の時間、仕事じゃない?」

「そうかも」

「お医者さんやってるんだっけ」


 うん、とかごめが頷く。気温は低いはずなのに陽射しが肌の露出した部分を焼いて、少し暑い。バス停を越えてしばらく足を進めても、道路の向かい側はまだ大学だった。


 レンガの道は規則的な模様を描いたまま、いつまでも変わらない。結局、僕たちは大学の先を見ないまま左折することになった。


 地面はアスファルトになり、道路と歩道を隔てる柵は褐色から錆びた白色になった。歩道は二人並ぶには狭すぎるので、僕が先陣を切って歩く。さきほどの大通りとは打って変わり、人とすれ違わない時間のほうが多くなった。


 久々に一軒家というものを見た気がする。鹿児島中央駅を出て以来、僕たちはそのほとんどを大規模な駅の周辺で過ごした。そういう駅の周りは大体、ビジネスホテルや巨大マンション、それからビルばかりがひしめき合っている。


 鹿宮さんと出会ったのは一軒家が建ち並ぶ住宅街でのことだったと記憶しているが、気分が落ち込んでいたためか、そのような景色を歩いた自分を思い出せない。


 後ろから自転車が来ていたので、かごめの手を引いて、二人で道の端に寄った。彼女の手には変わらない冷たさがある。


 その先は、手を繋いだまま並んで歩いた。


「少し、疲れた」

「そうだね。どこかで休もう」


 ここ最近、充分な休養を取れていなかった僕たちにとって、歩いて十分という距離はあまりに果てしなかった。


 瀬戸際の体力をなんとか維持しているこの状況では、どちらかが限界を迎えるまでに時間は掛からないだろう。


 力尽きる前に少し休んだほうがいいかもしれない。そんなことを考えていたら、運のいいことに、次の区画でベンチがひとつだけの広場を見つけた。


「公園、だって」

「公園って呼ぶには何もなさすぎるね」

「うちの神社のほうが、まだ楽しめそう」

「それはそうかも」


 親に「公園に行こう」と言われてここに連れてこられたら、子どもはきっと泣いてしまうと思う。それくらい狭く、公園と呼ぶには殺風景な空間だった。


 木製のベンチに座ったとき、僕たちの上空で、丸い雲が太陽の真下に滑り込んだ。


 景色はすこしだけ暗くなったものの、鮮やかさは高く維持されたままだった。空を見上げるかごめに倣い、視線を上に向ける。どこかの家から、掃除機の音が聞こえた。


「平和って感じがするなあ」

「かごめ、前にもそれ言ってた」

「そうだっけ」

「うん」


 かごめが目を細めて笑う。柔らかく見える表情だが、そこには明確な疲労の色が刻まれていた。声のボリュームが小さくなったり、歩く速度が遅くなったり、口には出さなくても、僕たちは確実に体力の限界に近づいていた。


 僕の身体にかごめの重みが乗り、彼女の頭がころりと肩に触れる。


「大丈夫?」

「うん」

「もうすぐで夕作さんの家だ。あと少し、頑張ろう」


 かごめの頭が、肯定を示す方向に動く。弱い風が吹いて、柔らかそうなその髪をふわりと持ち上げる。


「そっか、私たち、ようやく東京に来たんだ」

「うん」


 できるだけ強く聞こえるよう、喉に力を込めて頷いた。かごめは僕にもたれたまま、何も言わなかった。

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