3-9「救いたい線引きの内側」
「腹、減ったろ。メシ奢ってやる」
「え、悪いですよ」
僕がそう言うのとかごめが「やった。ありがとうございます」と笑顔を咲かせたのはほぼ同時だった。対人関係をうまくやるには、かごめが持つ愛嬌のようなものが必要なのかもしれない。
「気にすんな」
実際のところ腹が減って仕方がなかったし、横浜から東京までの電車賃を考えれば、サービスエリアで食事をする余裕はない。申し訳ないが、ここは甘えさせてもらうことにした。
「その前に一服してくるから、お前らは適当に席取っといてくれ」
トラックを降りると、新鮮な朝の空気を感じた。陽射しに暖められた空気は、太陽の匂いがする。車内よりもずっと温度が低いはずなのに、視覚的な情報のせいか、どこか暖かみを含む風のように感じられた。
喫煙所のほうへ歩いていく彼の背中を見送り、かごめと並んで建物のほうへ足を進める。突然彼女が軽くよろめいたので、背中に手を回し、彼女の体を支えた。「寝不足」、かごめは眠たそうに目を細めて言った。
「あれ、旅行のバスかな」
かごめが指した方向へ視線を向けると、そこには大型のバスがずらりと並んでいた。バスの前面に貼り出された行き先の多くは新宿のようだが、出発地点の地名は様々だった。
「旅行みたいだね」
「車って、偉大だ」
「うん」
自動ドアをくぐり、フードコートのある二階を目指して歩く。エスカレーターに乗っているとき、ふと、自分たちが鹿児島中央駅で電車に乗った日を遠い昔のことのように感じた。
フードコートに並ぶ店のほとんどが「準備中」の札を出していたが、フロアマップによれば、大体の店が七時から営業を開始するようだった。現在六時五十分。間もなくフードコートに活気が出てくるころだろう。
給水機で水を汲み、適当に真ん中辺りの席に腰掛ける。僕が自分のぶんだけの水を汲んだのに対して、かごめは鹿宮さんのぶんも汲んでいたから、少し申し訳ない気持ちになった。
間もなく鹿宮さんがやってきて、僕たちは蕎麦をご馳走になった。ここには二十四時間営業の店もあるようで、夜中に来たときはいつもラーメン屋に世話になる、と彼は笑っていた。
「いただきます」
昨夜もレストランに行ったはずなのに、僕は久しぶりにまともな食事を摂ったような気がした。つゆの塩味が重たい身体に沁みる。
「東京の叔父の家に行くんだっけか」
啜った蕎麦を飲み込んだあと、鹿宮さんは視線を落としたまま訊いた。「はい」「そうです」僕とかごめの返事が重なる。
ようやく夕作さんの家へ行くという目標が現実的になってきた。
まだ油断ができない状況とはいえ、一度は不可能と思えた東京到達が金銭的にも可能となった今、それは夢という不安定なものではなく、明確に目標として機能するようになっている。これは精神的に大きな支えになった。
「東京に着いたらもう戻んないの?」
「たぶん、戻りません」
「そうか」
てっきり「いつかは戻って顔を見せてやれよ」みたいなことを言われると思っていたので、彼がそこで言葉を切ったことに若干戸惑った。不自然に空いてしまった間を誤魔化すため、鹿宮さんに続いて蕎麦を啜る。ネギの爽やかな風味が心地よい。
「でも、いつかは戻ったほうがいいのかな、とも思います。心配してるかもしれないし。親ってたぶん、そういうものだから」
ほとんど音を立てずに食事していたかごめが、俯き気味にそう言った。自分でも食事のペースは速いほうだと思っているが、かごめはもっと速い。僕の蕎麦はまだ半分ほど残っているのに対し、かごめのざるにはひとつまみほどしか残っていなかった。
たしかに、かごめなら戻ろうと考えるだろうな、と思う。
彼女は家族という枠組みを大切に捉えているだろうし、自分を殺した父や村人でさえも、彼女が救いたい線引きの内側にいる。
広島で捕まったとき、山畑さんが言っていた。彼女が村に戻らなければ、災いが起こり続ける。それが本当のことなのかはわからない。
でも、かごめは自身と村人の命を天秤にかけ、葛藤している。
「自分を無下にする親の言うことなんて聞く必要ねえよ」
かごめの顔が上がる。鹿宮さんは箸で大量の蕎麦を掴むと、そのままつけ汁の椀に押し込んだ。蕎麦の体積で膨らんだつゆが、椀から零れそうになっている。
「戻るんなら、そのときは自分がされたぶん、復讐してやれ。じゃないと割に合わないだろ」
「割に合わない……」
箸で蕎麦をつまんだまま、かごめがぽつりと呟く。
鹿宮さんの言葉は、姉が言っていたことの究極型なのではないか。
幸せと不幸の程度は、いつか必ず同じになると姉は言っていた。でも、僕はその言葉が正しいとはどうしても思えなかった。全人類に当てはめて考えれば得をした人の裏で損をした人がいるから正しいと言えるけど、それではあまりに不平等すぎる。
そんなことをあの姉が意図していたはずはない。
でも、個人の中で、それらが同程度になることはおそらくない。誰が最初に言ったのかはわからないが、無責任な慰めの言葉でしかないと思う。
だから、鹿宮さんが口にしたのは、物事に刃向かうことを辞めた僕とは正反対の考え方であり、不完全な姉の言葉を補完する考え方でもあった。
理不尽を受け入れるのではない。不平等なら自らの手で平等にしてしまえばいい。簡単に思いついてしまうようだが、僕一人では実践に移すことは絶対になかっただろう。
俯きがちに相槌を打つかごめの横で、僕は「なるほど」と呟いていた。
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