3-7「言わせちゃいけないこと」

 ほぼ無意識に足を進めていたはずなのに、ファミレスからコンビニまでの道はしっかりと記憶に刻まれていたようで、まるで元から知っていた道だったかのように僕はかごめと別れたファミレスに戻ってくることができた。


 すでに店内の照明は落ち、ガラス窓は街灯や車のヘッドライトが高い解像度で反射している。


 彼女と別れてからもう二時間近くが経っている。僕たちに連絡を取り合う手段はない。かごめの行きそうな場所を手当たり次第探し、三十分以内に彼女を連れ戻る必要があった。


 別れた瞬間の状況を思い出し、彼女が歩いていった方向を記憶から掘り起こす。重たい扉が音を立てて閉まったあと、たしか僕は、彼女が歩いていく様子を窓から眺めていた。彼女の軌跡を辿るように入口に背を向け、窓に映る方向へ足を進めていく。


 人のために死ぬことができれば、少しは格好がつく気がしていた。僕はただ自分の人生に役割を与えてやりたかっただけだ。自分のことばかりで恥ずかしくなる。


 僕は自分のために生きていた。この逃走劇の存在意義を私物化していた。


 そもそもこれは、かごめを助けるための戦いだ。


 レストランに入る前、「私が死んだら」とかごめは口にした。おそらく、この逃走劇の結末に死を思い描いていたのは、僕だけではなかったはずだ。それにもかかわらず、彼女は一度も明確な諦めの言葉を口にしなかった。


 本当はかごめもわかっていたのだと思う。でも、諦めたくなかった。


 彼女は最後まで抗うことに決めていた。結局は死を迎えるしかなかったとしても、その瞬間まで生を手放そうとはしなかった。僕の考える最善は「できるだけ苦しまずに死ぬ」で、でもかごめにとってはそうではなかった。


 横を車が通り過ぎる。スーツ姿の中年男性とすれ違う。信号が赤に変わる。多くの人間が寝静まったあとも、街から人の気配はなくならなかった。


 かごめの居場所は、彼女が消えた方向へ歩いてみても、まるで見当が付かなかった。現実的に考えて、はぐれてから二時間が経った今、この広い街で彼女を見つけることはできるのだろうか、と思ってしまう。


 でも、かごめが同じ状況だったら、僕のことを探すだろう。


 ここで諦めたら、彼女とはいつまでも対等に話せないような気がした。僕の決断が、ようやく生き延びる道に繋がった。これを逃したくないと、強く思う。


 レストラン沿いの大通りを歩いていると、川にぶつかった。


 道路から階段を降りたところには歩道が整備されており、川に沿ってどこまでも伸びている。時計を持っていないから、現在時刻はわからない。でも、もうすぐで鹿宮さんの出発時間だということは体感でわかった。


 左右どちらに進んだらいいか迷って、結局川上に向かって進むことにした。間違っていたら間に合わないし、そもそも川沿いにいるという確証はない。でも、意を決して足を踏み出す。


 その瞬間、僕はたしかに鈴の音を聞いた。頭に、四つ目の少女が浮かぶ。


 周囲を見回しても、白装束の少女は見当たらなかった。


 音は檜神神社でよく聞いたものに違いない。彼女の髪飾りに付いていた鈴だ。鳥居、祠、事故の瞬間。それはいつも、僕を導くみたいに音を鳴らす。罠かもしれない。でも、今は縋るしかない。


 どうせ、死ぬ運命にあった命だ。


 川の水面は夜の街灯を受けてキラキラと輝いていた。人は自然が作り出す光景に目を奪われがちだが、頼りない月明かりだけで輝く水面より、僕の側面に広がる景色のほうがずっと美しく感じた。


 かごめは川のほとりで、膝を抱えて座っていた。


「……あ」


 足音でこちらに気づいたのか、膝に埋めていたかごめの顔がゆっくり上がる。その表情には怒りではなく安堵のような色が浮かんでいるように見えて、胸が締め付けられるように痛んだ。


「よくわかったね、私がここにいるの」

「なんか、うん」


 鈴の音のことを話す時間の余裕はなかったし、僕が最初に口にするべきはそんなどうでもいいことではなかった。かごめの横に立ち、手を差し出す。


「かごめ、悪かった。かごめは最後まで諦めないで東京を目指そうとしてたのに、僕が、」

「ごめん。謝らなきゃいけないのは私のほうだよ」


 懺悔を口にするより早く、かごめは僕の手を握った。その冷たい触れてから僕は、ようやく彼女が一度死んでいたことを思い出した。早足でここまで来たせいか、熱を吸い上げられるような感覚が心地よかった。


「さっきは怒ったけど、私もどうしようもないって、本当はわかってたんだ」


 だから、と口を開いたかごめの声が震えていた。それ以上の言葉を、まだ、吐かせてはいけない。衝動的に彼女を抱き寄せると、かごめのたしかな柔らかさを全身に感じた。「大丈夫」、さきほどとは反対に、今度は僕が彼女の言葉を遮る番だった。


「柚沙」


 震えた声で言ったかごめの、冷たい手が僕の背中に回った。肌越しに、彼女のか細い嗚咽を感じる。


「横浜までだけど、あてができた」

「え?」

「とりあえず急ごう」


 ここで立ち止まって説明している時間はなかった。彼女の手を引き、コンビニを目指す。かごめはよろめきながらも、ちゃんと僕に続いて歩いてくれた。今度は手を離さないよう、彼女が躓かない程度のスピードで進む。


 彼女が口にした「だから」のあとは、おそらく、一緒に死のうとかもう終わりにしようとか、諦めの言葉が紡がれるはずだった。でもそれをかごめに言わせるわけにはいかない。僕に当てられて死を受け入れることは、彼女の輝きを無下にするのと同義だ。


「トラックの運転手と仲よくなって、横浜まで乗せてくれるって」


 息を切らしながらの説明には限界があり、明らかに言葉足らずだったと、言い終わってから思った。かごめは少ない情報から自分なりに解釈したのか、しばらくの間を置き、「そっか」と覚束ない笑顔で頷いた。


「柚沙と一緒でどうしようもないってわかってたのに、私、死ぬ覚悟だけがなかった。どうにかなるって、根拠はないけど、でも信じたかったんだと思う。幸せにならないまま死ぬなんてあり得ないって」


 相変わらずかごめの手は冷たい。でも生きているという感じがする。楽観的な考えかもしれないが、かごめの中に住む怨霊をどうにかできれば、彼女を助けられるような気がした。


「でも、実際、どうにかなった。僕は諦めるのが早すぎたんだよ」


 不幸な人はいつか救われると信じたい。でも、実際はいつも上手くいかなかった。抗おうと立ち上がってみても悪い結果に終わる。だからこそ、上手くいくまで何度も再挑戦し続ける必要があるのかもしれなかった。


「温かい」

「え?」

「手」

「そっか」


 決断するにはあまりにも無力だった。僕が自分で合理的と思っていた考え方は、諦めが根底にあった。最悪の状況になるのを予期して、最も被害の少ない選択を取ろうとする。それが悪いものだとは思わないが、僕は諦めの使いどころを間違えた。


 かごめは僕を認めてくれた。彼女のためにできることは全部してやりたい。不純で他人任せの考え方かもしれないが、それを自らの生きる意味だと捉えることで、もう少しだけ呼吸がしやすくなるような気がした。

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