3-6「やっぱり希望は見えないけど」

 しばらく座っているうちに、曖昧になっていた僕の意識は回復した。その間に男は煙草を一本、消費したようだった。


「家出?」


 頭上からぶっきらぼうな声が降ってくる。「そんなところです」、少し遅れて答えると、彼は声を上げて笑った。


 ガラス越しに見る店内で、ドリンクコーナーの上の時計がちょうど二時を指していた。


 正面の大通りはトラックばかりが通過する。そのたびに重たいエンジン音が響き、地面が軽く揺れた。


「一人?」

「いや、連れがいたんですけど」

「はぐれたのか」

「そんな感じです」


 男はまた声を上げて笑うと、話を完結させないまま、自動ドアの向こうに消えていってしまった。なんだったんだ、と声に出して呟いてみる。扉越しに、また形の崩れた「いらっしゃいませ」が聞こえる。


 秋の風は冷たい。大気が夏という属性を完全に脱ぎ捨ててからは、夜になると芯ごと冷やすような風が起きるようになる。変化に順応できないまま気温は下がり、去年は何度も凍死する自分を想像した。


 生きるってなんだろう。これまで何度も考えた。


 あの家で間引かれることが決まっていたのだとすれば、僕は最初から死ぬために生まれてきたのだろうか。


「ほら」


 背後から声がして、顔の横に差し出されたのは缶コーヒーだった。右手のビニール袋には消毒液と包帯もある。


「え、ありがとうございます」


 礼を言って最初に受け取った缶は、ずっと持っていると火傷をしそうなほど熱を帯びていた。寒さを感じて途方に暮れていたところだったから、正直なところかなりありがたい。


「腕貸せよ」

「あ、はい」


 右手に持っていた缶を反対の手に持ち替え、右腕を男に差し出す。彼は消毒液の箱に書かれていた説明書きを一瞥したあと、僕の腕に液体を垂れ流した。最初は伝っていく雫がくすぐったかったが、傷口に消毒液が沁み始めてからはそれどころではなくなった。


「男なら黙って耐えろ」


 彼の言葉を聞いてから自分が悶絶の声を上げていたことに気づいた。缶に握力を込めることで痛みをやりすごす。スチール缶だから、潰す心配はなかった。


 男は包帯の説明書きに一瞬だけ視線を落とし、無造作に僕の腕に巻き付けた。消毒液のときもそうだったが、本当に読めているかは怪しいところだ。


 自分でやったほうが綺麗にできそうという言葉は飲み込んで、素直に礼を言う。


「俺も十代のころ、家出したわ。懐かしい」


 腕の傷のことを訊かれると思っていたので、話題が別の方向へ進み始めたことに戸惑った。彼を納得させられる説明はできる気がしないので、これはありがたい。かごめ様のことを話しても信じてもらえないだろう。


「そうなんですか」


 彼はおもむろに煙草を咥えると、流れるような手つきで火を灯した。ビジネスホテルで籠原が吸っていたものとは全く違う匂いがする。でも、どちらも煙草ということがはっきりわかるから不思議だ。


「一本やるよ」

「煙草、苦手なんです」


 未成年を理由に断ろうとして、やめた。通報されて補導対象になったら困る。

「付き合いで吸っておけよ。愛想のないヤツだな」


 口では悪態を吐いているものの、彼の表情に不快そうな色は浮かんでいなかった。男の吐き出した煙で、視界の解像度がぐっと低下する。


「すみません、本当は連れと喧嘩になって」

「喧嘩? なんで?」


 彼にもらった珈琲に口を付けると、貼り付くような苦みが舌の上に広がった。でも、そのおかげで、沈みかけていた思考が引っ張り上げられるような気がする。


 多量のカフェインで意識を覚醒させるのは、多少身体に負担が掛かるとしても、今の僕に必要なことだった。そうでもしなければ、絶望に押しつぶされてしまいそうだった。


「資金がなくなって、目的地も目指せなくなって、死ぬ思いもした。だからもう、諦めようって言ったんです」


 言ってはいないか、とすぐに考え直した。だからといって訂正するほどの気力はない。


「死ぬ思い?」

「あー、えっと、ろくに食べ物も買えなくて」


 出身村の怨霊に殺されかけた、なんて話しても信じてもらえないだろう。僕だってあの村に住んでいなかったら信じなかった。大通りを眺めたまま煙を吐き出す彼を一瞥し、話を続ける。


「僕たち、鹿児島から来たんです」

「へえ、ずいぶん遠くから来たんだな」


 彼はそれほどの長旅であることは予想していなかったようで、短くなった煙草を灰皿で消しながら、目を丸くして僕を見た。


「東京を目指してるんですけど、もう手持ちもなくて。そんなの、無理じゃないですか」


 言葉を吐き出しながら、これはよくないと思った。自分の状況を口にするだけで悲観的になってくる。感情が体内で膨張し、言葉に滲む。


 感情的になるな。そんなのは合理的じゃない。頭でわかっていても、感情と理性を切り離すのは難しい。


「お前が悪い」


 あっけからんとした顔で男が言った。


「え?」

「俺が家出したときは最後まで諦めなかった」


 なにも知らないくせに、と思った。その気持ちが顔に出ていたのか、男は嘲笑ともとれる笑みを浮かべている。僕は感情を押し殺して、彼の家出の理由を訊くことにした。


「あの、えっと、お兄さんは、」

鹿宮かみやでいいよ」

「じゃあ、鹿宮さんはどうして、家出したんですか」

「親との喧嘩だよ」


 鹿宮さんの深く息を吸い込む音が、座っている僕の元まで聞こえた。聞くのは悪かったかと一瞬だけ思ったが、さっきは彼も踏み込んできたわけだし、お互い様だと言える。


 彼は僕の前に一歩進み出ると、骨張った人差し指を大きなトラックに向けた。


 僕たちの場所からは、トラックの助手席がよく見える。窓に黒い影が映っていて、目を凝らすと、それがギターケースであることがわかった。


「ギター?」

「進路のことで揉めたんだよ。親はいい大学に行って、自分の会社を継げってうるさかった。だから勝手に出てきた。俺には俺の夢があるからな」


 命が懸かった自分とは違い贅沢な悩みだと思う反面、僕は彼の苦悩を自分と重ねながら聞いていた。


 人はどうしても生まれる場所を選べない。そういう理不尽をどうしても受け入れなければならないという、家族間の果てしない問題が彼にもある。僕との違いは、彼は抗うことに決めたという点だった。


 彼はまさに、戦っている最中なのだろう。


「働きながらでも、案外バンドはできる」

「すごいですね」


 この人はどうして自分より強大なものに立ち向かうことができるのだろう。家庭における自分の役割を放棄し、必要とされなくなったとしても、自分の叶えたい夢を追うなんて僕には理解できない。


「明日、ライブあるんだよ」

「夢、叶えたんですね」

「そんな大層なもんじゃねえよ」


 ふう、という控えめな溜息が聞こえる。大通りからウィンカーを出して入ってきた車が、正面を向いたまま僕たちの隣に停まった。


 三〇〇人も入らない小さなライブハウスで、細々とバンドを続けている。レコード会社から声は掛からないし、自作のCDも売り上げがいいわけではない。彼は自嘲気味にそう語った。


「でも、案外、なんとかなってる。どうしようもないことって、意外とどうにでもなるもんなんだよ」

「そう、なんですかね」


 今まで、物事が自分の意識外でどうにかなったことなんて一度でもあっただろうか。人生はどうにもならないことのほうが多い気がする。


 ひとつが上手くいけばそれを越える不幸がやってきて、姉が口にしていたように、幸と不幸の釣り合いが取れたと感じたことは一度もない。


 確証のない希望をわざわざ口に出す行為に、どのような意味があるのだろう。僕はずっとそう考えてきた。


「お前の連れは、まだ可能性があるって思ってたんじゃないの。お前が故郷を出るって言ったから付いてきてくれたんだろ? お前に期待してんだよ。だったら応えてやるのが男ってもんだろ。自分を信じてる女を裏切るってのは、男が一番やっちゃいけないことだ」


 連れが女性だとは一言も口にしていないはずだが、彼の中ではすでに確定事項のようだった。


 かごめは僕に期待して村を出た。僕と一緒に逃げる決断をした。鹿宮さんの言葉を反芻すると、急に自分が恥ずかしくなってきた。


 そもそも、意味を見出そうとしている時点で、僕はかごめに見放される運命だったのかもしれない。


 僕が憧れたかごめだったら、どれほど絶望していても希望を口にしたはずだ。それが必ずしも正しいとは思わない。叶わない希望に縋って死んでは目も当てられない。それこそ姉のように、ただ孤独な死が待っているだけだ。


 でも、あってはならない、と思う。


 どんなときでも希望で煌めいたかごめの綺麗な瞳を、僕が曇らせるなんてことはあってはならない。


「僕も連れも、親から逃げてきたんです。村の暮らしは最低で、僕たちは虐げられて生きてました」


 わざわざ口にするようなことではないだろう。それなのに逃げてきた経緯を話してしまったのは、安易な希望を口にする彼に、どうしようもないことがたしかに存在していることを教えてやりたいという反抗的な気持ちがあったからだ。


 でも、それ以上に、かごめだったらこうするだろうという確信に似た予感があった。僕は、かごめの特別になりたかった。


「お願いします。僕たちを東京まで乗せていってくれませんか」


 どうしようもないと思っていることでも、意外とどうにかなる。鹿宮さんはそう言っていた。それはもしかしたら、かごめの根底にある考え方なのかもしれない。自分でない人間とかごめの気が合うのは、なんか嫌だ。


 腰を折り、頭を下げる。地面が近くなったせいか、頭が重くなったように感じる。頭上から鹿宮さんの戸惑った声がした。でも、頭を下げ続ける。


 周囲には異様な光景に映るかもしれない。だからといって頭を下げないわけにはいかなかった。かごめと対等に人生を歩むために、走らなければならない道のりがたくさんある。


「今は三千円しかないけど、でも、足りなければ必ず働いて返します。それでもダメならなんでも言うことを聞きます」


 恥ずかしいから止めろ、と頭を小突かれた。頭頂部を抑えながら顔を上げる。鹿宮さんは苦笑いを浮かべていた。


「横浜までだったら連れていってやってもいい。明日、朝から横浜で仕事だから」

「え」


 見上げたまま動けない僕に、彼は「東京はさすがに無理だけどな」、申し訳なさそうに付け加えた。


 最初にそれを受け入れることの不利益を考えていることに気づき、慌てて思考をかき消した。


「えっ、いや」

「なんだよ。お前が言ったんだろ」

「そうですけど、でも、なんでそこまでしてくれるんですか」

「俺が家出して途方に暮れてるとき、誰も助けてくれなくてさ。全員、余裕あるくせに最低だって思ってたよ。だから、同じ思いをさせるのは違う気がする」


 映画のなかでも照れくさそうな言葉を、彼はまじめな顔をして言った。僕はなんとなく彼の目を見返すのに耐えきれなくなって、視線をゆっくりと地面に降下させる。


 僕が礼を言うと、彼は控えめに笑った。


「連れ、探してこいよ」

「はい。すぐに戻ります」

「三時には出発しなきゃいけねえから、それまでに戻ってこい」


 憂鬱な気持ちでいることは意外と居心地がいい。自分が不幸に向かって転落していることをどこか他人事のように考え、どうしようもなくなったら死ねばいいという、明確なゴールがそこにはあった。


 実際にゴールできるかは別問題だが、目的に向かって当てのない道を歩くより、そっちのほうがずっと楽だった。


 かごめはどこにいるのだろう。彼女に謝らなければならない。


 再び立ち上がろうとしたとき、あまりの重さに一瞬、転倒しそうになった。それでも足を踏みしめ、かごめを連れ戻すために立ち上がる。


「さっきはぶつかってすみませんでした」


 振り返って僕が言うと、彼は目を細め、「遅えよ」とまた声を上げて笑った。


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