3-5「秋風に耽る」
憂鬱という感情には重さがあって、一定のラインを越えた負荷が掛かると、身体の機能が著しく低下する。最初は些細なことができなくなって、それから視界が狭窄し、最終的には生命を脅かすような出来事も脳の処理が追いつかず、対応できなくなる。
レストランを出てからしばらく歩いても視界には人工物が映り、どこを見ても人の呼気に満ち溢れていて息苦しくなる。僕の吐き出した空気は誰かが吸って、僕も誰かの吐き出した息を胸いっぱいに吸い込んだ。空気は肺胞を勢いよく膨らませて、中古の酸素を血液中に放出する。
張っていた糸が緩んでからというもの、腕の傷が痛んで仕方がない。
ビルの間を縫ってやってきた柔らかい風が鼻を掠め、人間の、古い皮膚を凝縮したような匂いがした。レンガタイルの道の、小さな凹凸につま先が引っかかり、よろめいた拍子に数人の視線が集まった。
空は藍色以外、点のような星が数カ所、飾られているだけだった。
月は見えない。村にいたころに見た空とは違う存在のように感じる。ここは別世界だ。
これからどうしようもないと絶望的な感情を抱いている反面、自由になったという開放的な気分でもあった。
ヘッドライトを携えた車が次々と横を通過し、その光の明滅に意識が眩んだようになる。
人が多い場所にいると、自分という存在が希薄になったように思えてくる。輪郭を伴わない、巨大な影の一部として僕はここにいた。輪郭を持たないから溶けて消えたとしても気づかれない。
大通り沿いにはコンビニがあり、広くも狭くもない駐車場に数台の乗用車と巨大なトラックが停まっていた。トラックの運転席には男が眠っていて、傍らのホルダーにエナジードリンクが置いてある。
無意識にコンビニの敷地に足を踏み入れていることに気づき、自分を光に誘われる虫のように思った。
歩くのに疲れたので、出入り口に近い車輪止めに腰を下ろすことにした。
車から赤子を抱えた女性が出てきて、僕を一瞥したあと、颯爽と自動ドアをくぐっていった。しばらくして帰ってきた女性の腕のなかで赤子は泣いていた。
子どもというのは、身体中に流れる命の源、のようなものを絞り出すように泣く。生きるということを、全面的に放出しているような感じがする。
僕は子どもの真っ直ぐな目が恐ろしくて堪らなかった。
あの黒い目は何もかもを見透かし、僕を敵として認識しているような気がする。間もなく女性は車に戻り、子どもの泣き声は聞こえなくなった。視線を地面に戻し、アスファルトの隙間に挟まった小さな石を眺める。
この先、どうしようか。
生きるためには考えなければならないことが山ほどあるのに、疲労と憂鬱に侵された頭では、きっかけを掴むよりも先に重たく沈んでいく。
誰からも生きることを望まれていない。それなのに僕がこれ以上生きている理由なんてどこにあるのだろう。
かごめはどうやって東京に行くつもりなのだろうか。一銭も持っていないから不可能だと思う反面、彼女ならなんだかんだ目的を達成できそうな気がした。
かごめには、どんな場所にでも到達してしまいそうと思わせる力がある。
しかし、想像や理想と現実は別だ。一銭も持たず、いつ倒れるかもわからない身体で、少女ひとりが名古屋から東京へ移動するなんて現実的ではない。このままだと彼女は一人で死ぬことになる。
車輪止めに座って地面を眺めているとき、遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえた。それがかごめの元へ向かうものではないことを祈りながら、少し、顔を上げる。
視界の端を何かが掠めて、顔を動かした拍子に、先ほどトラックで眠っていた運転手の男と目が合った。交差していた視線は間もなく外れ、僕は地面に視線を落とし、男はコンビニの中に歩いていく。
入店を知らせる音のあと、形の崩れた「いらっしゃいませ」がひとつだけ聞こえた。
どれだけ疲れていても心が重たくても、身体の内部は正常に働くから困る。若干の尿意を感じて腰を上げようにも、満足に力を込めることができない。何をするにも時間がかかる。ぱちっ。背後で何かの弾ける音がする。視線を移動させる。蛍光灯の青白い光が目に入る。飛び込んだ虫が焼かれて死ぬ。その瞬間、今なら立ち上がれる、と思った。
足に力を込め、身体を持ち上げる。事故の直前に身体が強張った影響か、動くたびに筋が張ったように痛む。
立ち上がった瞬間、身体に妙な衝撃があって、「おい」低い声を聞いてから自分がさっきのトラックの運転手にぶつかったのだと気づいた。
気力のないまま、それでもなんとか謝罪の言葉を引きずり出そうとしたとき、タイミングの悪いことに、立ちくらみによって視界の解像度が低下する。
「おい、ぶつかっといて謝罪の一言もないのか?」
輪郭を失っていく視界のなかで、運転手が思っていたよりいい体格をしていることに気づいた。視界は完全に黒い点で覆われ、自分の黒目が今どこに向いているのか、わからなくなる。
これほど体格がよければ僕を殴り殺すことも簡単だろう。自分の意思で死ぬことができず、かといって生きる意思すら持てない脆弱な僕を、ここで終わらせてほしかった。
「あんた、大丈夫か?」
男が口にした「大丈夫」が鈍くなった耳の内側で重たく響いた。血管が詰まったような痛みを脳に残し、回復した視界に最初に映ったのは怪訝そうに眉をひそめる男の表情だった。
自分が立った状態であることを忘れていたせいで、脊髄から脚の支配権を投げ渡された僕は、思わず膝から崩れ落ちそうになった。
「すみません、平気です」
「腕、怪我してんじゃねえか」
コンビニの光に照らされた茶髪がいやに眩しかった。顔のパーツから判断するにそれほど老けてはいないはずだが、大雑把な無精髭が男を実年齢よりも深く見せているような気がする。
「とりあえず座れよ」
喉の奥が締め付けられたようになっていて、男の好意に、僕はただ頷いて反応を示すので精一杯だった。
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