3-4「死体は濃密な孤独のにおいがする」
人には生まれた瞬間から役割があり、生涯を通してそれがなくなることはないと思っていた。それなのに僕は「兄のために生きる」という役割を剥奪され、自分の命に目的を持たせることができずにいる。
いや、僕の人生は本来、切り捨てられたあの瞬間に終わっているはずだった。潔く死んでおくべきだったと思う反面、一人で餓死するよりはこのままかごめと身を寄せ合って死ぬほうがずっといいという思いもあった。
人生の最後に食べたいものについて、何度か考えたことがある。ごはんに旗が刺さったお子様プレート、生前に母が作ってくれたカレーライス、漁港で食べた海鮮料理。
結局どれかひとつに決めることはできなかったけど、今の僕はどうでもいい日常の延長で死にたいと思っていた。
家事を手伝って、家族五人で食卓を囲み、兄の話を聞く。大して苦しいことのない日々が続いて、どうせ壊れるのであれば、その状態のまま適当に死んでしまえばよかった。
近くのファミレスで、僕たちは結局、籠原にご馳走してもらったのと同じメニューを注文した。新しいものに挑戦するより、確実に美味しいとわかっているもののほうが最後の晩餐には適していると思う。
最期の贅沢なのにお金を使い切ってしまわないくらい、贅沢からほど遠い生活を送ってきた。
「二人でなんとか生き延びる方法、ないのかな」
かごめの前にハンバーグが置かれ、店内に充満していた人々の喧騒は、肉の焼ける暖かな音に塗り替えられる。「ないと思う」、紡いだ言葉の、端っこがほつれたようになる。
「村に戻って酷い殺され方をするより、二人で死んだほうが楽だよ」
「うん、そうかもしれないけど……、でも、」
ナイフとフォークを握ったかごめの手は、言葉が終わるより前に動きを停止した。
天井から垂れ下がった照明の下に湯気が溜まり、テーブルに糸状の影が落ちている。ファミレスは大通りに面していて、ガラス張りになった窓からはそこを通る車の姿がよく見えた。
「ごめんね」
「なにが?」
「私のせいでこんなことになって」
その言葉は、僕を試すような響きをしていた。意図がわからないまま、口を開く。
「僕はいいよ。元々、いつか死んでただろうし」
目を逸らしても向かう先に死があった事実は変わらない。
僕にとっては場所と状況が少し変わった程度に過ぎなかった。むしろ、一人じゃないのであれば、状況は好転していると言っていい。
かごめの動き出した手は、彼女の大きな黒目が手前の料理に着地すると同時にまた動きを止めた。ナイフを置いてペーパーナプキンで手を拭ったあと、またナイフを握る。それでもなかなか食事に手を付けない。
「食べないの?」
口に含んでいた料理を飲み込み、かごめに尋ねる。
「柚沙は怖くないの?」
「怖いけど、でも、どうしようもないじゃん」
一度死んでいるのに、何を怖れることがあるのだろうと思った。
「そうだけど……、私は割り切れないよ」
かごめの前の料理は、運ばれてきたときよりも音を発しなくなっていた。いつの間にか周囲の客は数を減らし、厨房からは水の流れる音が頻繁に聞こえるようになっている。
間もなく閉店時刻がやってくる。
「ねえ、ずっと気になってたんだけどさ、柚沙はなんで私を逃がそうとしてくれたの? だって、柚沙まで危ないじゃん」
「前に言わなかったっけ。見殺しにした姉の代わりにかごめを助けて罪滅ぼしをしようとしたんだと思うって」
「嘘だ」
僕とかごめの間の空気には、目に見えなくとも、今の一言で確実にヒビが入った。
鹿児島で買ったかごめのワンピースは、胸から机に隠れて見えなくなるところまで、縦方向に二本の皺が入っていた。テーブルの死角で彼女が裾を強く握っているのだと、遅れて気づいた。
「柚沙はけっこう非情な判断、するよね。事故に遭った人を放置したり、もうどうしようもないから一緒に死のうって言ったり」
「それは、そうするしかなかったから。助けられるなら助けたかったよ」
ぎしっ。かごめの座るソファが軋む。彼女の前に置かれたハンバーグはもう、湯気も、音も立てない。閉店間際のBGMと、水の流れる籠もったような音がフロアで静かに響いている。
僕は未だに彼女が何を言いたいのか、わからずにいた。
「おかしいって思ってた。お姉さんに似てるってだけの人に、どうして命まで懸けられるんだろうって。家族思いなんだなって思ってたけど、さっき柚沙は、『家族愛なんてあてにしないほうがいい』って言った。矛盾、してる」
それはそうかもしれない、と思った。思ったが、肯定はしなかった。
「ねえ、柚沙は、最初から東京に行けないって思ってたでしょ。たまたま夜行バスがあるって知ったけど、でも、最初から死ぬつもりだったんじゃないの?」
今度は本当に返す言葉が見つからなかった。彼女の言葉は、心をやすりで削り取るようなざらつきを持っていた。
死ぬしかないとわかっていながら、自分に明るい未来なんてないはずなのに、どうして僕は残飯を探ってまでしぶとく生き残ろうとしたのだろう。
煩瑣として育てられた子どもの多くは年を重ねるごとに物事への興味を失い、家の労働力としての役割を不満なく遂行するようになる。
それは、自分を捧げて生きるということが意識に強く刷り込まれており、そのことに関して誰も疑問に思っていないからだ。
おかしいのは、幼いころから外部の世界を見てきた僕だけだった。だから、死の匂いがしない村外を日常の一部にした僕は、姉の死に耐えることができなかった。姉のように、誰にも看取られず一人で死ぬことがずっと怖かった。
死体は、濃密な孤独のにおいがする。
「……危なかった。柚沙に殺されるところだった」
僕の沈黙をかごめは肯定と捉えたのか、手の付けられていないハンバーグを残したまま、おもむろに席を立った。
一緒に死ぬという意思が明確にあったわけではなかった。僕がそれを表現するための言葉を見つけるよりも早く、かごめは声の届かない場所に達していた。
かごめが二重の扉を引いたとき、内側の空気が外に引っ張られ、暴力的な音が鳴った。かごめの背中を眺めながら、僕は村を出たときのことを思い出した。
僕はたしかに、あてのないままかごめを村外に連れ出し、いつか、行き詰まって死ぬだろうと思っていた。いつ一人で死ぬかもわからない人生に嫌気が差していた。自殺するほどの勇気はない。死ぬことすら、自分の一人ではできなかった。
いや、一緒に死ななくてもいい。誰かが涙を流すその横で、見送られながら息を引き取りたかった。何か、役割を抱えたまま死にたい。
かごめを助けるために奔走している間は、彼女に求められているようで居心地がよかった。ただ、僕には彼女を救えるほどの力がなかった。
自分に役割を見出してくれる人の前で、僕は、この人なら人生を捧げられる、と思う。
「お客様、もう閉店のお時間ですので……」
申し訳なさそうに声をかけてきたのは初老っぽい白髪交じりの男性だった。
「あ、すみません」、かごめが注文した料理はそのままに、レジで会計を済ませた。余った小銭をポケットに入れ、店を出る。外は入店したときよりずっと気温が低くて、半袖しか持たないかごめのことが少しだけ心配になった。
彼女は一体どこへ向かったのだろう。周囲を見回すも、見慣れた後ろ姿はどこにもない。大通りに並ぶヘッドライトがやけに眩しかった。
これだったらかごめに残金を渡しておけばよかった、と思った。
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