3-2「東京に着いたら、上着を買おう」

 事故から数時間が経過し、僕の脳は次第にその瞬間の映像を鮮明に思い出せるようになってきた。飛び出してきた子どもを避けようとした山畑さんが急ハンドルを切り、旋回した車はガードレールの途切れ目から急斜面を転がることになったのだ。


 思えば、あれは人だったのだろうか。イメージによる記憶の上書きが働いている可能性は捨てきれないが、白い装束を着たあの少女は、かごめ様だったのではないか。


 車の前に現われた理由も動機も想像が付かないけど、早朝からあんな場所に白装束の子どもが立っているとは思えない。


 僕たちもろとも、かごめを殺そうとしたのではないか。


 車が回転しながら斜面を降る途中、僕の腕の下で枝の折れる感覚がして、その瞬間、たしかに悲鳴のひとつが消えた。こちらを捕えた男の目が、今になってはっきりと蘇る。


 人が死ぬ瞬間、というのを初めて見た。そこには明確な、死の瞬間、というものがあった。徐々に死が色を濃くしていくのではなく、枝が折れるみたいに、軽い音を立てて死はいきなり姿を現した。


 一方で、ざまあみろと思っている自分もいる。かごめが受けた死の恐怖を、村人全員に追体験させてやりたい。頭のなかでその思いを言語化させてから、かごめの境遇について、自分が想像より苛立っていたことを意外に思った。


 気づけばかごめが眠ってから一時間が経過し、次第に僕も体力の限界が見えるようになってきた。路線図からでは詳しい時間はわからないが、あと数駅で乗り換えが発生する。彼女もかなり疲れているだろうし、到着まで眠らせてやることにした。


 行けるところまで行く。やはり僕たちの残金では名古屋までが限界だった。そこから東京まで歩いていくとしたら、何日かかるだろう。江戸時代は参勤交代なんてものがあったくらいだし、案外、徒歩でも簡単に行けてしまうものなのかもしれない。


 楽観的な方向へ流れてしまいそうな脳に鞭を入れ、思考を元の道筋に戻す。


 最も可能性があるのはヒッチハイクだろうか。でも簡単にいくとは思えないし、最悪、通報されれば補導の対象になるリスクがある。そうなれば僕たちは村に送り返され、考え得るなかで最悪の結末を迎えることになるだろう。


 それに、籠原が村人に協力していた以上、警察がどれほど檜神村に絡んでいるかも不明だ。全国の警察と繋がっているとは考えがたいが、行方不明者として届けられている可能性がある以上、リスクのある行動はできるだけ避けたい。


「あー、やっぱり、無理か」


 いつの間にか人が減った車内で、わざわざ口に出して言ってみる。誰にも聞こえなかっただろうけど、言葉はたしかな存在感を帯びてそこにあった。


 これが今、現実として確定したような気さえした。


 東京に行く金はない。協力者もいない。数日歩くとしても、最低限に抑えた食事さえままならず、たどり着くより先に体力が尽きる未来が容易に想像できる。


 最初からわかっていたことだった。村を出る前から僕は、家でくすねた金額では東京になど到底たどり着けないと考えていた。


 かごめを起こして乗り換え、目を閉じている間にいつの間にか空は暗くなっていた。車内を反射した窓から薄く見える空に、僅かな星屑が瞬いている。


 車内アナウンスで関西の地名が読み上げられなくなったころ、窓の外は光の気配と人の姿が疎らになった。目に映るビル群は影のような山々に取って代わり、電車の走る音と窓の揺れる音に意識がどんどん沈んでいく。


 車内は定期的に人が増えては減るを繰り返し、まれに大量の人が入れ替わる駅があるものの、そこで乗り込んできた人たちは数駅もしないうちに姿が消えていた。


「おなか、空いたね」

「うん」


 最後の乗り換えのとき、かごめが「東京にたどり着けたら、美味しいものを食べよう」と言った。「たどり着けたら」という言い回しが頭の中に引っかかって離れなかった。彼女の視界にさえ、たどり着けない可能性は姿を晒し始めたようだった。


「そうだね。あと、上着も買おう。結構寒くなってきたし」


 でも無理だったら。互いにもう一つの可能性について口には出さなかったが、おそらく、僕たちは同じ結末を思い描いていた。


 ドア、閉まります。ご注意ください。ホームに男のしゃがれた声でアナウンスが入り、電車に乗り込むと一気に希薄になる。


 車内を歩き、他に人のいない車両の、端っこの二席に並んで腰を下ろす。かごめの頭が、僕の肩に乗る。死の気配が一段階、強くなる。


 * * * * *


 名古屋駅の改札を出てしばらく歩いていると、どういう道筋を辿ったのかは覚えていないが、気づけば僕たちは駅の地下街に立っていた。


 甘辛いソースのいい匂いが漂っていたものの、かごめが「食欲、湧かない」と言うのでしばらく外を散策することにした。彼女の意見には僕も同意だった。


 悲惨な死体を見たせいなのか、それとも過度な疲労のせいなのかはわからない。とにかく腹が減って仕方がないのに、いざ食べ物の匂いを前にすると胃が締め付けられたようになる。


 名古屋駅はとにかく人が多かった。行き交う中にはスーツを着た人が多く、誰もが忙しない足取りでまっすぐに歩いている。人とぶつかりそうになっていたので、かごめの肩に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。


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