第3章『いつだって希望は見えないけど。』
3-1「もう逃げ切るのは無理かもしれない」
いつからか、父はおかしくなった。
姉が病気に罹る前、一度関東の遊園地に行ったことがあった。詳しい場所は覚えていないが、周囲に海を臨む綺麗な場所だったと印象が残っている。
村にあるどんな建物よりも高いジェットコースターからは歓声と悲鳴が響き、園内に流れるポップな音楽に僕は心を躍らせていた。
奥まった場所にある売店で、僕たち三人はは父に売店のソフトクリームを買ってもらった。鋭く照りつける陽射しの元で食べるソフトクリームは格別だった。
「柚沙、口に付いてる」
ふふ、と笑いながら母はハンカチで僕の口を拭う。
両親から何かを与えられたときの記憶は、こうして実体験を伴い、それはどう見ても日が沈む間際の空のように凛と輝いていた。それは特別で懐かしむべき経験として脳の奥に収納されている。
その記憶は、今、とても遠い。
兄だけを丁重に扱うようになっても、父は、僕にものを与えることがあった。しかし綺麗な思い出がくっついたかつてのものとは異なり、それは、何か義務、のようなものが付随している。
父が菓子や玩具を買い与えてくれるときはいつも、僕が兄に関する何か成し遂げたときだった。
三人平等に愛を与えてくれた母とは異なり、父は兄に家業を継がせるため、兄ばかりに金を掛けた。僕が受けた恩恵は兄のおこぼれに過ぎない。
父にものを買ってもらえるのは、自分の存在が認められたからだと思っていた。だから僕は兄のために身を尽くし、それが自分の生きる意味とさえ考えていた。
あとから考えれば、あれは愛情によるものではなく、そうして褒美を与えたほうが僕の働きに拍車がかかるからだったのだろう。
僕を切り捨てたり、姉を見殺しにしたりという父の判断は、無情というより合理的と表現するほうが正しかったのではないかと思う。父の遺伝子には、誰かを犠牲にしてでも最善を選び取る能力が刻まれていて、それは僕にきちんと受け継がれた。
父は合理的だった。親が子に抱く無条件の愛情はそこになく、ただ、僕は兄に家業を継がせるための装置になった。父の、僕や姉を切り捨てる判断は間違っていない。
父が死んでは兄の教育ができないし、兄が家業を継ぎ、生きていれば伊柄家はなくならない。
でも、役割を失った僕は、ただ抜け殻として生きていくしかなかった。
* * * * *
かごめの手を引きながら、村人の車で通った道を戻っていく。途中、遠くから車が来る気配がしたときはガードレールを跨ぎ、木々の影に隠れてやり過ごした。時間が経つにつれて身体中の筋肉が強張ったようになっていき、事故の瞬間、恐怖のあまり全身に強く力を込めたのだと気づく。
煩瑣と呼ばれて死の淵を彷徨った経験があっても、身体は反射的に死ぬことを怖がっているようだった。
疲れと身体中の痛みで、引き締めたはずの警戒心はずるずると解けていき、車が来ていたことに気づかず横を通り過ぎることが増えた。そういうときは毎回、それが村人の車でないことを祈ることしかできない。
市街地に入って一時間ほどが経過したころ、僕たちはようやく線路を発見した。太陽はほぼ頂点に達し、涼しげな風を無視して熱が身体を侵食するようになっている。額に浮いた汗を拭い、それでも足を進める。
しばらくして、駅を発見した。
身体を酷使した影響か事故の筋肉痛が早くも現れ始め、疲労も相まって思いどおりに動くこともままならない。このままでは力尽きて、人混みの真ん中で倒れてしまいそうだった。
駅で時計を見ると、広島から夜行バスが発車するまで四時間以上の間があった。
「柚沙、ってば」
「ああ、うん、ごめん。なに?」
かごめが心配そうな顔で僕を覗き込む。その顔にも疲労が色濃く刻まれていた。代謝を止めた身体にも疲労は蓄積するものらしい。
関係のないことを思い浮かべていると、かごめは何も言わず、視線だけをロータリーに送った。
数台停まった列の先頭に、鹿児島ナンバーの車があった。運転席に人の姿はないが、あの車種は田沼商店が使っていたものだ。檜神村から来たものとは限らない。あの車種で鹿児島ナンバーを持つ車はいくらでもいるだろう。
でも、万が一を考えるなら。夜行バスまで待っている余裕はあるのだろうか。事故のことを村民に知られている以上、何時間も駅周辺に留まっているのは危険だ。
「とりあえず、急いで離れないとまた捕まる」
そうだね、とかごめが俯いて言った。
彼女の考えが手に取るようにわかった。僕たちに残された金で東京に行くには、夜行バスに乗るしか選択肢がない。ここで電車に乗っても、僕たちがたどり着けるのはせいぜい名古屋の辺りだろう。
もう、逃げ切るのは無理かもしれない、と思う。
顔を見られないよう人混みを避けて進みながら、持ち金のほとんどを使って切符を買った。行けるところまで行こう、ということで話が落ち着いた。
近くに誰かが潜んでいる可能性があったため、鹿児島中央駅でしたように、駅員に最短ルートを聞いている余裕はなかった。
切符売り場で見た路線図を参考に、東京のほうへ向かう電車のホームを探し、階段を上がる。ホームには人の姿がいくつか見られるくらいで、その中に知った顔はひとつもなかった。
一刻も早くこの駅を離れたかったので、快速か各駅停車かも確認せず、僕たちは最初にやってきた電車に乗り込んだ。車内はなんとか二人で並んで座れるくらいには空いていた。
「やっぱり、救急車だけでも呼んでおいたほうがよかったかな」
「なにが」
訊き返しながら、かごめの質問の意図は予想が付いた。
車に乗っていた者のうち二人は即死だったように見えたが、だからといって他の人たちが死んでいるとは限らない。その証明として、僕たちは生きている。
それに、運転席に座っていた山畑さんは確実に、僕が車を出たあとも息があった。救急車が来れば、あのまま放置されるよりずっと生存率が上がるだろう。
だが、彼らを見殺しにするほうが僕たちにとっては都合がいい。しかしそれを口にしたくはなかったので、かごめの言う救急車が、あの事故とは全く関わりのない言葉でありますようにと心の中で願っておいた。
「中山さんも山畑さんも、たぶん生きてたよ。救急車呼べば、助かったかも」
「まだ死んでるとは限らないでしょ」
「でもこのままだと危ないよ」
彼女は出会ったときから人格者だった。ほぼ交流のなかった僕にまで手を差し伸べてくれたし、いつか、宮司を継いで村人を救いたいとも話していた。素晴らしい考えだと思う。
でも、今は、その親切心が必要な場面ではなかった。だって、彼らが死んでいてくれたほうが、どう考えても都合がいい。放っておくほうが合理的だ。
とうとう疲労が喋る義務感を上回ったのか、かごめは何も話さなくなった。僕も知らない駅のアナウンスが流れるのを聞きながら、ぼうっと窓の外を眺める。
広島駅までの電車では、最後はかごめが起きている番だった。顔を下げて動かなくなったかごめを窓の反射で見て、彼女もそれを覚えていたのだと知った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます