2-12「白装束の女の子」
次第に建物の高度は小さくなり、最終的に建物自体の数が減った。人工物が存在しないその景色は、絶望が根を張るこの心によく馴染んだ。
こんなことなら、初めから「最善の死」を迎えるために行動しておけばよかった。村人に捕まって強制的に連れ去られ、どうせ殺されるかそれより苦しい罰を与えられるのであれば、最初から楽な方法で死んでおくほうが合理的だったと言える。
車は山道を走っているようで、カーブに差しかかるたび隣に座る男の体重がのしかかり、切りつけられた右腕が痛んだ。葉の緑に反射した太陽が車内にまで入り込んできて、眩しい。
正面に太陽がやってきたとき、あまりの光量に意識が眩んだようになった。
僕たちの他に車は見かけなかった。人気のない森で、ここで殺されて埋められたとしても、おそらく誰も気づいてくれないだろう。
太陽が雲に隠れて、空間の明度が落ちる。道が細くなり、頭上を枝が覆い隠すようになった。ナビは数キロ先に高速道路の入口を示している。このまま料金所を通れば、僕たちに逃げ出す隙は与えられない。
「今は山道。もうすぐ高速に入る。ナビ通りなら日が落ちる前に村だ」
気づけば山畑さんは誰かと電話をしているようだった。ががっ。スピーカーから雑音がして、『わかった』、淡々とした返事が紡がれる。声は父のものだった。
生きるってなんだろう、と思う。僕はいったい何のために生きてきたのだろうか。
息を止める。心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、それに合わせて腕の傷がテンポよく痛む。視界の狭窄する感覚と、少しずつ輪郭を帯びていく胸の苦しみが心地よい。
それでも耐えきれなくなって息を吸い込んでしまうから、僕は、自分が思っているより生に執着しているのかもしれない。
鈴の音が、遠く聞こえた。目眩のような感覚がして、視界が薄くぼやけていく。
「前、前!」
「違う! 前に子どもがっ」
車内に怒声が響くのを、薄膜の掛かった耳で聞いていた。
顔を上げると、フロントガラスの向こう、白いガードレールが見えた。身体に強烈な遠心力が働き、左の男とともにもう一人を押しつぶすようなかたちになる。
前方の景色が右から左へ流れていった。
車は停まらなかった。耳をつんざくようなブレーキ音とタイヤの擦れる音が鼓膜いっぱいに膨らんで、弾けたように降り注ぐ。身体の向きに異常を感じて、右腕が重力に引っ張られていると理解してからは早かった。
車はガードレールを躱し、急斜面に身を乗り出していた。間もなく、視界の上下が入れ替わる。
車内は悲鳴と外から殴られる音でぱんぱんに膨らみ、今にも破裂しそうになっていた。視界の上下が反転し、身体中の筋肉が強張るのを感じながら、自分に何が起きているのか、わからずにいる。
背骨に響くような衝撃のあと、車は右側面を下に向けて停止した。身体の両側面に人の熱を感じながら、僕は、しばらく身体を動かすことができなかった。
不思議と痛みは感じない。ただ、動けなかった。
頭のなかに、真っ白で何もない空間が広がっていた。どこを眺めても必死に目を凝らしても白しか映らない、無機質な空間だった。
白は次第に輪郭を持ち始め、色を帯び、立体化していく。そこまで経って、車が斜面から滑落したという事実が、ようやく脳に浸透した。
かごめ、と呼ぶ声が掠れた。エンジンがまだ付いているのか、車は唸るような声を上げている。それ以外、木々の、風で葉が擦れる音しかしなかった。
身体を起こそうと、座席のくぼみに手を掛け、力を込める。息を吐いたとき、下にいる村人と目が合った。よく見ると、彼は身体を下に向けたまま、首をあり得ない方向に曲げている。胃から熱の塊が押し上がってきて、思わず吐き出しそうになった。
自分もこうなるかもしれなかった。
しばらく固まっていると、上に乗る重みで息苦しくなってきたため、身体を捩って脱出を試みた。上部、つまり本来は左側面だった扉は変形して開きそうもないので、粉々に割れてぽっかり空いた窓から車を出ることにした。打撲は酷いが、幸い、骨が折れている感じはしない。
外へ出るとき、窓枠に残った鋭いガラスに脚を引っかけて痛かった。
落ちないようにしっかりと手を付き、かごめが座っていた席を覗き込む。予想とは裏腹に扉が開いたので、座席に足を掛けながら、かごめを引っ張り出す。
意識はないようだが、ガラスでところどころに裂傷がある以外、目立った外傷は見当たらない。
少なくとも、彼女と重なるようにうなだれていた二人のように、腕や脚が変な角度をしているということはなかった。
かごめをなんとか車外に引きずり出し、自分が地上に降りてから、抱きかかえるようにしてかごめを地面に下ろした。頭を地に付けるのは悪い気がして、自分の脚を正座のかたちに整え、膝枕のような形で寝かせる。
車の天井部分は、車内で見たよりずっと歪んでいるような気がした。山畑さんはハンドルを握った体勢のまま、頭から血を流している。
助手席に人の姿は見当たらず、エアバッグがぱんぱんに席を圧迫しているだけだった。
そこに座っていた村人が逃げた可能性を考え、周囲に視線を巡らせてみる。その結果、車から数メートル離れた場所に倒れているのを見つけた。
おそらく、落下中に車外へ放り出されたのだろう。腕がないように見えるのは角度のせいだと信じたい。そんな僕の期待を裏切るみたいに右腕がすぐ近くに転がっているから、今度こそ衝動に任せて胃の中身を吐き出した。
顔を上げて、運転席に目をやる。彼は頭から血を流しながら、うわごとを呟くみたいに口を動かしていた。即死した村人は二人いるようだったが、他の乗員がどうなのかはわからない。
意識を失いつつも、僕やかごめのようにほぼ無傷の人がいてもおかしくなかった。
下から勢いよく空気を吸い込む音がして、視線を落とすと、かごめが忙しなく黒目を動かしていた。とりあえず、彼女の意識が戻ったことに安堵する。
「……かごめ」
「……あ」
かごめはそう言うとゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。
「かごめ、動ける?」
「大丈夫。柚沙は?」
「僕も大丈夫」
事故の直前、運転手は父と電話をしていた。位置を割り出されるのもすぐだろうし、近くで待機しているのであれば、ここに村の人間が来る可能性もある。
一刻も早くこの地を離れる必要があった。
「かごめ、行こう」
「みんな、どうする?」
みんな、と繰り返してから、彼女が死にかけているこの村人たちをどうにかしようとしているのだと気づいた。
「このままにする」
「え、でもその、死んじゃう……、よね」
「警察に通報してたらこっちが危ない。追っ手が来るかも。それに、もう何人か死んでる」
腕を失って倒れている人影に顔を向ける。かごめは僕の視線を追って初めてその惨状に気づいたのか、しばらく目を丸くして見つめたあと、素早く両手で口を押さえた。
父でなくても籠原たちがまだ近くにいるはずだし、僕たちが逃げるためには、ここにいる村人たちに構っている暇はない。
それに、彼らがここで死んだら追っ手の数が減る。僕たちだけがほとんど無事なのは奇跡だ。
幸せと不幸の収支が合うのだとしたら、幸運と不運の収支も同じになるはずだ。この先、こんな幸運は訪れない。
僕が手を差し出すと、かごめは右手で口元を拭いながら、もう片方で僕の手を握った。
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