2-11「死んだらいいのに」

 腹の底で熱がぐっと重さを増し、それに引きずられた脳に血が上ったようになる。逃げるためにかごめの手を取ったとき、視界が、血で塗りつぶされた気がした。


「ふざけんなよ! 助けてくれるんじゃ――」


 逃げる間も言葉を吐き出す間もなく、後ろから羽交い締めにされた。衝撃でつい離してしまった手の先、かごめも同じように捕えられる。


「離せよっ」


 逃げようと手足を動かすが、三人がかりで抑えられては、腕が抜けたそばから取り押さえられてしまう。それでも諦めずに抵抗をすると、腕に冷たい感触が走り、遅れてやってきた痛みで肺に大量の空気が流入した。


 僕を取り押さえるうちの誰かが、刃物を持っていたようだった。背後は見えないが、僕の腕を傷つけた刃物を、誰かが首筋に当てている。


「ごめん、ごめんな、でも、」


 地面に組み伏せられた僕の前で、籠原は膝から崩れ落ち、力なく地面に手を付いた。四つんばいの体勢のまま、泣きそうな顔で僕の目を見る。


 背中に誰かの膝が乗り、地面に押し付けられた肋骨が悲鳴を上げていた。


「でも、わかるだろ、柚沙。安曇さんには逆らえないんだよ、なあ、わかってくれよ」


 彼の言葉は僕に伝えるためというより、自分自身に言い聞かせているように響いた。鳩尾が圧迫され、僕の紡いだ「ふざけんなよ」は声にならなかった。


 心に湧いた怒りの衝動に任せて、死ねとか消えろとか、安易な罵詈雑言を浴びせてやりたくなった。


 僕とかごめが車に乗せられてからも、彼は地面でうなだれたままだった。今度口に出した「ふざけんな」はちゃんと声として成立したようで、車内にいる全ての視線が僕に集まる。そのひとつひとつに睨みを効かせる前に、いくらかの視線は元の方向へと戻っていった。


 後部座席は二列あり、前方にかごめ、後方に僕が、それぞれ村人に挟まれて座らされた。


 今すぐに暴れてやりたいところだが、誰が刃物を持っているかわからない以上、逃げるより前に殺される可能性がある。


 山畑さんの運転で車が走り出すと、慌ただしい電話の話し声が充満していた車内の空気に、薄い車のエンジン音が追加された。


「柚沙、お前も偉くなったもんだねえ」


 山畑さんがいつもの陽気な声で言った。調子は同じなのに、言葉に込められた感情だけが全く異なるから、彼の声が鼓膜の内側で不気味に響く。


「何がですか」

「村の巫女はねえ、村のもんなんだよ」


 心臓がぎゅっと締め付けられる。かごめの表情が見えなくてよかった、と自分本位なことを思った。


「かごめの身は、本人のものです」

「あのね、かごめ様が出っぱらっちゃうと、檜神村が危ないんだ。災害が起こり続けるわけよ。村を滅ぼすわけにはいかないでしょう?」


 返事をするだけ無駄だ。村民には何を言っても響かない。自分だけがよければいいと考えているような連中だ。


「籠原君に頼んで正解だったよ。今朝まで君たちを引き留めてくれたのは本当に大手柄だ。おかげですぐに祭事を執り行うことができる」


 その言葉をきっかけに、腹の中に溜まった怒りが再び沸騰を始める。


 気づける要素はいくらでもあった。よく見れば停まっていたハイエースは鹿児島ナンバーだったし、もっと早く、籠原が行きとは違う道を使っていた時点で察しが付いたはずだ。


 昨夜の会話で、互いに腹を割った気でいた。「信じなくていいよ」という言葉は、疑いを抱いていた僕に対する優しさの裏返しなのだと思っていた。自分を信じなくてもいいから助かってほしいという、籠原なりの秘めた優しさだと思っていたのに。


 あれは、彼が自身の罪悪感を薄めるために口にした言葉だ。


 考えてみれば、籠原が地面に手を付いて謝罪の言葉を口にしたとき、彼を傷つけるための言葉はいくらでもあった。脅しをかけることもできたはずだ。


 彼は正しい自分でいようとしていた。あの言葉が嘘だったようには思えない。だから、「それがお前の考える正しい行動なのかよ」とか「そんなんじゃ誰にも認められない」とか、明確に彼の心を痛めつける言葉はたしかに存在していた。


 それにも関わらず僕が古典的な悪態しか吐けなかったのは、彼を可哀相だと思ったわけではなく、おそらく僕が自覚している以上に彼の裏切りに衝撃的を受けていたからだった。


 彼が恋人を人質に取られているとか、生活を握られているとか、どんな理由があっても許さない。絶対に忘れない、と思う。


 あの瞬間に戻れたら僕は間違いなく彼を罵倒するだろう。


 車に乗っているのは僕とかごめを除いて六人だ。中には体力的に問題がありそうな老人もいるが、これだけの人数を相手に逃げられるほど僕たちの身体能力は優れていない。だから、逃げるには隙を見つけるしかない。


 隙。そんなものはこの先、生まれるのだろうか。


 籠原はこの車に乗っていないし、路地で見た数名の顔もここにない。おそらく、これ以外にも別で動いている村人たちがいるのだろう。


 僕からは後頭部しか見えないため、かごめが今どんな表情をしているのかわからない。そう考えていたらバックミラー越しに彼女の顔が見えることに気づいて、しばらく、ぼうっと正面を向いている彼女の顔を眺めていた。


 ふいにかごめの視線が上がって、ミラー越しに目が合うと、彼女は困ったように微笑んだ。あ、受け入れたんだな、と思った。


 籠原の誘いに乗ったのは、流れに身を任せた結果だから仕方ない。目に見える怪しさがない限り、どんな状況でも僕はその選択をしたはずだ。だから、たぶん、間違えたのはもっと根本的な部分だ。


 つまり、かごめを連れて村を出たという点。


 流れに逆らうような行動はしないほうがいい。抗おうとしたとき、僕はいつも誰かを不幸にしていたし、いい結果に繋がったことなど一度もない。


「安曇さんは?」


 五百メートル先、右折です。ナビの音声をきっかけに運転席から声が聞こえた。「神社に戻ったってさ」、そう返した助手席の男が一息吐いて、再び口を開く。


「もう東京から帰ってるそうだ。準備もできたらしい」


 それからは会話が興っては衰退し、また長続きしない会話が発生する、ということが繰り返された。


 ナビの画面には檜神神社までの所要時間が六時間三十五分と表示されており、長いとも、車だとそれで済むのかとも思った。僕たちは電車で一日かけて来たのに。


 僕は何も言葉を発せず外の景色を眺めていた。最短ルートが混み合っているため迂回して進むようで、ウィンカーを出した車が左折し終えるのと同時、ナビが「新規ルートを検索します」と言った。


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