第2章『雨の降らない星空に祈る。』

2-1「電車はぼやけた世界を走っている」

 幸せな出来事と不幸なことは、生涯を通して同じ分量になるはずだ。これはたしか死んだ姉の言葉だったように思う。


 かごめはこれまでの人生において、僕が想像できないほどの幸せを享受してきたに違いない。だって、そうじゃなければこんな死に方をするなんてことにはならないはずだ。


 時間が経つごとに僕たちの間から会話が薄れて、空が白み始めるころには足音だけになった。


 日が差し始めたとはいえ、正確な時間もわからないまま、薄暗い道を進み続けるには根気が必要だった。わかってはいたが、明るい気持ちを保つほどの余裕はない。


 休憩を挟みながら歩き、麓の街にたどり着くころにはすでに日が昇り切っていた。公園の時計が午前七時を指しているから、家を出てから七時間が経ったことになる。


 村から離れるにつれて剥き出しの土は少なくなり、地面はアスファルトで覆われるようになった。建物の数も増え、その高度も上がっていく。


「人、たくさんいる」


 登校中の小学生を見ながら、かごめがぽつりと呟いた。体感、数時間ぶりの言葉だった。


「東京はもっと多いよ」

「……知らない人に、ぶつかっちゃいそう」


 腹が減ってコンビニに入ったとき、店員や客の視線がかごめにくっついて離れなかった。


 傍目にも死の気配がするのかもしれないと思ってかごめを眺めてみたが、気を失っていたあのときとは異なり、外観では生きている人間とそう変わらない。


 遅れて、彼女の白装束が目を引くのだと気づいた。


 村人が捜索の範囲を村外に広げれば、彼らが目撃情報を手に入れるのも時間の問題だろう。せっかく逃げても行き先が割れるのは困るため、コンビニで買ったおにぎりを食べながら鹿児島中央駅へ向かい、最初に目に付いた服屋でかごめに服を買ってやった。


 セールで売られていた半袖のロングワンピースは、季節から若干のズレはあるものの、そのシックな色が案外かごめによく似合っていた。袖を通した彼女がこちらに微笑みかけたとき、そこにはたしかに、春の景色が広がっていた。


 でも十月中旬の午前中は、半袖で過ごすには少し寒い。


 父の財布に入っていた現金は三千円ほどで、台所の戸棚で見つけた封筒と合わせても四万に届かなかった。二人で飛行機に乗るには足りない。


「でも、たぶん、かごめだけだったら行けるよ」


 飛行機でも新幹線でも、かごめ一人だけなら東京に送り届けられる。「えー」かごめは困ったように笑った。


 目を細めて彼女が見た先、視線を辿るとそこには観覧車があった。ビルの屋上で、かなりの存在感を放っている。鹿児島中央駅に着いたようだった。


「一緒に行こうよ。新幹線の値段も調べてみよ」


 かごめが跳ねるように一歩前へ出たとき、僕たちはいつ手を離したんだっけ、と思った。


 彼女が僕の提案を飲まなかったことに安心していた。自分を見捨てなかったことに、というのは少し違う気がする。でも、だったらどうして安心しているのか、うまく言葉にすることができなかった。


 駅前の大通りはバスや大型のトラック、乗用車が不規則に列を成していて、そこら中からエンジンの鈍い音が聞こえた。


 かごめはエスカレーターに驚いたり、巨大な駅舎に歓声を上げたりしていた。彼女につられて、こちらまで気分が高揚する。


 こんな状況なのに、旅行のような非日常を感じて、懐かしくなる。


「水族館」


 駅に貼られた広告を見て、かごめがぽつりと呟いた。


「うん。魚がたくさん展示されてんだよ」

「魚なんて川で見れるじゃん」

「カラフルな魚とか、あと、人よりもずっと大きい魚とかがいるの」

「それはおもしろそう。いつか、行きたいなあ」


 新幹線の切符売り場は僅かに列ができていたものの、全員が手慣れていたのか、僕たちの番はすぐにやってきた。実際に券売機を操作するのは初めてだったが、親が買う姿を見た記憶が役に立った。


 行き先、東京駅。片道。三万二千円弱。やはり一人ぶんを賄うので精一杯だ。


「かごめ、やっぱり新幹線でも二人は無理だ」


 上の路線図を眺めていたかごめの視線が、ゆっくりと降下する。「そっかあ」、気の抜けた声が返ってくる。


「だから、やっぱりかごめ一人で、」

「柚沙も、もう村に戻れないでしょ?」

「え?」

「私のこと、逃がしちゃったから。ごめんね」


 かごめは少し困ったような顔をしていた。おそらく、僕を巻き込んだことに責任を感じているのだろう。


「別に、気にしないでいいよ」


 たしかに、かごめを助けなければ追われる恐れは生じ得なかったはずだ。でも、だからといって、村であの生活を続けることが幸せだったかと言われればそうではない。


 いつかは死に至る生活を、死なないからという理由だけでだらだらと続け、誰からも望まれていないのに、僕は長い間無意味に生き残っていた。


 それなら、自分を助けてくれた人に恩を返したいと思うのが自然だろう。


「じゃあ、僕たち二人が東京に行く方法を探そう」


 僕の言葉に頷いたかごめの表情には安堵が浮かんでいた。


 駅員に尋ねた結果、以下のことがわかった。


 僕たちが持っている金額では、新幹線、飛行機で東京に行くことはできない。加えて、特急券が必要ない路線を使っても行けるのはせいぜい名古屋までだろう、とのことだ。それに、新幹線、特急を使わずに東京を目指すのは現実的ではない、という。


 名古屋すら一日では難しいから、下車し、始発まで何時間も待つことになる。それに、乗り換えの数も尋常じゃない。一日中電車で移動し続けるのはかなりの苦痛らしかった。


 そこで教えてもらったのが、広島駅まで電車で移動し、そこから夜行バスで東京へ向かうという方法だった。それなら手持ちで充分に足りるし、時間は掛かるが、食事をする金銭的余裕もある。


「あったね、方法」

「うん。訊いてよかった」


 東京までの道のりを果てしなく感じていたので、電車とバスで行けると聞いたときは驚いた。


 とりあえず、移動手段という最初の壁はこれで解決しそうだった。あとは、かごめの叔父が彼女を受け入れてくれるのかという疑問だが、これについては大きな問題ではないと考えている。


 僕は夕作さんにある種の信頼を寄せていて、それはかごめも同じようだった。


 かごめの叔父である夕作さんは、村長や現在の宮司と揉めて村を出ることに決めた。歴代宮司を務める安曇家の人間が村を出るなんてかなりの異例で、当時は大事件のように扱われた。


 多くの者は引き留めたが、ある日、夕作さんはその痕跡ごと姿を消していた。


「でも、叔父さんがいなくなった日、私の部屋にメモが置いてあったの。叔父さんの新しい家の住所と、『何かあったら連絡しなさい』ってメッセージ」

「そういえば、鎮魂祭のときに宮司さんと喧嘩してんの、見た記憶がある」

「手紙出したら迎えに来てくれないかな」

「届くころには村の追っ手が来るよ」


 僕の不在とかごめの失踪が紐付けられるのは時間の問題だろう。おそらく、村外に逃げたことに気づかれるまで、そう時間は掛からない。ここまで僕たちが何時間もかけて歩いた道のりは、車を持つ彼らからすれば大した距離ではない。


 僕たちは、できるだけ早くここから離れる必要があった。距離ができるほど、捜索も難しくなる。


 電車に乗っても座席に空きはなく、僕たちは扉の横で壁にもたれかかるようにして電車に揺られた。かごめはときどき窓に張り付き、外の景色を眺めていた。


 出発から四十分が経って席に座れたかと思えばその十分後に乗り換えの駅に到着するから、たしかに駅員の言ったことは正しいかもしれないと思った。


 眠る暇もないし、乗り過ごせばかなりの時間を浪費することになる。


 僕たちは一時間ごとに、交代で仮眠を取ることにした。最初はかごめに寝てもらい、その間僕は、うっかり寝てしまわないように立って過ごすことにした。


 昨夜は眠らずに歩き続けた。一時間の仮眠では埋まらないほどの肉体的疲労がこの身体に蓄積されている。


 電車はぼやけた世界を走り続けた。立ながらうっかり眠ってしまい、ついバランスを崩したとき、乗客の視線が集まって恥ずかしかった。

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