1-6「鈴と巫女と死体」
祠を取り囲むようにロープが張られており、等間隔に紙垂が飾られている。紙垂の先端には鈴が付いていた。
ちりん。ロープを跨いだときに足が触れて、透き通った音が鳴る。その瞬間、いつの間に姿を現したのか、白装束の少女が立っていた。かごめ、ではない。
少女は右の側頭部に、鈴の付いた髪飾りを付けていた。鈴は、少女のスローモーションのような動きに合わせて音を鳴らす。
彼女が振り返って、僕の視線はその薄く伏せられた目に吸い寄せられた。
真っ黒の瞳がゆっくりと動き、視線が交わった瞬間、目尻の下側に切れ目のような傷があることに気づいた。切れ目が時間をかけて開くのを見て、息を呑む。
傷ではなかった。その顔には目が四つあった。
「はっ」
気づけば地面に座り込んでいて、目の前に少女の姿はなくなっていた。次第に尻もちをついた痛みが背筋を伝って横隔膜に伝染する。
祠の後ろには白い祭壇があり、そこに、かごめが横たわっていた。
「あ、か、かごめ」
地面を這って彼女に近づく。かごめは胸の上で手を組み、死んでしまったかのように動かなかった。いつもの巫女の服ではなく、白装束に身を包んでいる。
目は僅かに開き、そこから、生気は感じられなかった。
「かごめ、おい」
肩を掴み、身体を揺らす。布越しにひんやりとした感触が伝わってきて、血の気が引いた。え、嘘だよな、と僕は口にしていた。
真っ白な骨があって、筋肉や血管が絡みつき、脂肪と肌が貼り付いている。触れている部分の柔らかさからそのことがはっきりとわかる。
姉が死んだときもこうだった、と思う。
僕はあの家の労働力だった。放課後の交友関係は許されず、父および兄のために働く。それに背くとひどく叱られるものだから、そういった家族という営みのなかで、家のために生きることが僕の存在する意味だと考えるようになった。
姉は流行病に感染しても満足に治療されなかった。父は姉を部屋に幽閉し、僕に食事の提供などの世話をさせた。姉はよく僕に「ごめんね」と言った。
そのときの僕は自分が兄や姉に仕えるのが当然だと思っていたから、どうして謝られているのか、理解できなかった。
薬がなかったわけではない。それは兄が病に伏したときのため、戸棚にしまわれているのを僕は偶然知っていた。父に尋ねても「あれは由のためではない」と言うので、僕は素直に従った。ほどなくして、姉は死んだ。
死体を見たとき、それが死体であるとわかるのはなぜなのだろう、と思う。
薄く開かれた暗い目とか半開きになった口とか、あとは力なく垂れ下がった腕とか、そういう細かな要素が総合して全身に死を漂わせているのかもしれない。
かごめは明らかに死んでいるとわかった。
身体は冷たかった。しばらく、かごめの表情を眺めてみる。ちりん、鈴が鳴る。視界の端で、白い陰が靡く。振り返る。そこには何もなかった。
白装束から覗く、鎖骨から胸にかけての曲線がやけにリアルだった。かごめの手を取り、手首の動脈が流れているであろう場所に指を当ててみるも、脈は感じられない。かごめ、と呼びかけてみる。呼びかけてから、思わず飛び退いてしまった。
だって、まさか、本当に目を開くとは思わなかった。
「……え、私」
「か、かごめ?」
「柚沙? なんで……?」
「そっちこそなんで、生きてるの」
彼女は呼吸をしていなかった。心臓も止まっていたはずだった。体温だって感じられない。まさか僕の勘違いだったのだろうか。もしくは幻覚を見ている、とか。疑問が完結しない。
「かごめが死んだかと、思った」
安堵のあまり、涙腺が緩みかけている。声が震えていないか、心配だった。目を擦るかごめの動作があまりにも自然で、最初から死んでなどいなかったような気がしてくる。
「……私も、死んだかと思った」
ゆっくりと、僕を見上げたかごめの瞳が月明かりで潤んでいく。
「怖かった」
かごめが手を握る力を強めて言葉を追加する。彼女の目から溢れた雫は頬を伝って落下し、暗闇に紛れて見えなくなった。「生きててよかった」、自然に言葉を紡げたことに自分でも驚く。
いつも明るく振る舞っていた彼女でも、本当は死に恐怖を抱いていた。僕はなぜか、そのことに安心していた。
「ありがとう」と言ったかごめの表情が色素の薄い笑顔に変化したとき、僕は彼女が好きかもしれない、と思った。
「かごめが、生贄にされたって聞いて」
その瞬間、今度は遠くで鈴の音がした。紙垂に付いているものではない。ロープで囲まれた範囲のずっと外側から聞こえた音だった。
「誰かが来てるのかもしれない。いったん離れよう」
かごめが頷いたのを見てから、僕は彼女の手を握り直し、森の外を目指した。彼女の手は冷たいままだった。
この森に入るところを村人に見られた。僕が侵入したことが宮司に伝わるのは時間の問題だった。とりあえずここを去るのが最優先だ。
「柚沙、助けに来てくれたの?」
「え、まあ。そうなの、かな」
「ふふ」
かごめは僕の手を握り返すと、胸の内側で堪えるみたいに笑った。
「ありがとう」
「本当によかった」
そう言ってから、自分の言葉の重みにまた目頭が熱くなった。それが心から出た言葉だと自覚してからは恥ずかしさが色を強め、今度は身体が芯から熱くなっていく。
でも、今は感傷に浸っている場合じゃない。宮司は生贄を捧げることでかごめ様の怨念を鎮めるつもりだった。もし生きていることに気づかれたら何をされるかわからない。
「身体は大丈夫なの?」
「大丈夫だと思う。でも、ちょっと寒い」
「体調は?」
「身体が重たい感じがする」
木陰を使って身を隠しながら進む。離れた場所に、懐中電灯の光が見えた。かごめを連れ出したことに気づかれたかもしれない。このまま森にいたらいつかは見つかってしまうだろう。遠回りをしていけば、おそらくは誰にも会わずに自宅の蔵まで移動することができる。
ふと、彼女の手を引きながら、何をしているんだろう、と思った。
姉の遺体を見たとき、孤独のなかで死んだ彼女の気持ちを想像して恐ろしくなった。僕が薬を盗んで飲ませていたら、ああやって一人で死ぬことはなかったのではないか。僕はあのとき、姉を見殺しにした。
でも、村のルールに逆らう訳にはいかない。姉の死後、あんな死に方をするのが怖くなって父に反抗した。自分も兄のように扱ってほしかった。
しかし僕の言葉は届くことなく、ひどい怒声を浴びせられたあと、数日間蔵に幽閉された。どれだけ異を唱えようと、力が及ばなければ意味がない。それどころか、現状を悪化させる恐れがある。
その日から僕は人に抗うことをやめた。場を支配するルールに身を委ねたほうが、様々な最悪から逃れることができる。
そう決めたはずなのに、僕は村の方針に逆らい、かごめを助けてしまった。明確に、巨悪に立ち向かおうという気はなかった。ただ、流れのまま、真っ直ぐに進んでいった結果がこれだった。
たぶん僕は、他でもない自分が彼女を助けたかった。それが自分の生まれてきた理由とさえ感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます