1-5「『~祭事のお知らせ~』」

 村の掲示板には、池田いけだたけおのポスターが貼ってある。たけお、というのが武雄なのか竹男なのかはわからない。村外で選挙ポスターを見たとき、政治家というのは苗字か名前、もしくはその両方をひらがなにするものなのだと知った。


 池田たけおは僕が小学生のころから村長を務めていた。いつも村役場にいるらしいが、実際に会ったことはない。子どもたちの間で、池田たけおは空想上の存在だった。


「池田たけお、池田たけおをよろしくお願いいたします。ご声援ありがとうございます」


 かごめが現われなかった夜の翌日、広場の声がここまで響いてくるのを聞きながら僕はあのポスターについて考えていた。


 誰と誰が結婚したとか葬儀の知らせとか、鎮魂祭の告知とか。そういったものが貼られた掲示板の半分を、いつも池田たけおのポスターが占領している。


 日焼けして色の薄くなった池田たけおは、もう元がどんな色だったのか、思い出すことができない。スーツは青色をしているし、微笑みをたたえた彼の写真は背景と同化して輪郭がわからなくなっている。


 選挙とは名ばかりで、この村で池田たけお以外に投票する人はいないし、彼の他に立候補する人も出ない。


 村の方針は村長ではなく、ほとんどを安曇家が決めていると言われている。小さく、地形的にも隔離された村だから、過去に宮司の一家が治めていたころから変わらないのだと思う。


 日が傾き始めるころ、急にひどい空腹を感じて家を出た。家の食糧に手を付けては何をされるかわからないし、僕には田沼商店で残り物をもらうという選択肢がある。


 一昨日、初枝さんから新しい仕事を請け負った。内容はライバル店の前に猫の死骸を置いてくる、という簡単なものだ。報酬は三日分の弁当だから、あと一つもらえるはずだ。


 商店へ向かう道中、畑にいつもより多くの人の姿があったため、遠回りをすることにした。


 こんな状況で畑の整備をしているということは、やはり不況が回復する目処が立ったのだろう。もしかしたらかごめ様を封印、もしくは祓うことに成功したのかもしれない。村役場の前を通ったとき、新品になった池田たけおのポスターが目に入った。


「祭事のお知らせ……」


 掲示物の何よりも目立つように、一枚の和紙が掲示板に貼られていた。池田たけおの顔の半分、それから他の告知の上に被せる貼り方が、その緊急性を嫌でも伝えてくる。


 このポスターは、いつから貼られていたのだろう。


 鎮魂祭の時期まで、まだ三ヶ月もある。これまで、年末年始以外に神社で祭事が行われたことなど一度もなかった。背中に汗が伝う。その不快感を誤魔化すため、商店への道をただ歩いた。


 田沼商店に客の姿はなかった。


 一方で、間もなく閉店の時間だというのに、店の前に野菜を出したまま、初枝さんはカウンターで新聞を読んでいる。ガラス戸を開けるとようやくこちらに気づいたようで、「あら」、いつものしわがれた声で言った。


「あれ、まだ閉めないんですか」

「営業時間を戻すのよ」


 ああ、と声が出た。そういえば僕が小学生のころは、今より閉店時間が遅かった気がする。彼女が店を早く閉めるようになったのは、おそらく、不況で客足が遠のいたことが原因だ。


「何か、あったんですか」


 訊き方として不十分だっただろうが、初枝さんは僕の意図を理解したのか、「準備ができたそうなのよ」、目を細めて言った。


「準備?」


 訊き返しながら、その言葉が掲示板にあった祭事に関係しているとわかっていた。思考を追いやることで深部に抑え込んでいたかごめの言葉が、不安感を煽るように浮き上がってくる。


 かごめ様への生贄にするため、巫女は同じ名前を与えられることがある。


「かごめ様を鎮めるための準備に決まってるじゃない」

「え、どうやって、ですか」

「特別な供物を捧げて、そっちに呪いを移すのよ」


 秘密を打ち明ける、みたいに初枝さんが言った。それが具体的にどういう意味なのか、彼女は教えてくれなかった。客が店にやってきたからだ。


 この日の売れ残りは焼魚弁当だった。頭を下げて受け取り、檜神神社を目指す。何か儀式をする予定なら、もしかしたら今日は入れないかもしれない。案の定、鳥居の前にはロープが張られていた。


 檜神神社に向かう畦道の両脇は乾ききった田んぼで、表面を覆うように雑草が生えていた。顔が判別できないほど離れた場所で、村人がその雑草を引き抜いている。僕は鳥居の前に腰を下ろし、そこで弁当を食べることにした。


 太陽が明るさの余韻だけを空に残すようになったころ、彼らは撤収を始めたようだった。


 空になった弁当を抱えたまま、ぼうっと空を見上げていた。山の陰が黒く、茜色になった空に刻まれている。


 気づけば暑さを感じない気候になっていた。縁を切られてから二回目の夏が終わり、これからは熱中症に怯えなくて済むことに安堵している。


 でも季節は巡って、冬になる。暖房を付けることも許されないから、去年は何度も凍え死ぬような思いをした。ずっと秋だったらいいのに、と強く思う。


 男の声が近づいていることに気づいたのは、鎌を抱えた彼らが、月明かりで視認できる距離になってからのことだった。


「気の毒だ」


 年寄りというのは独特なイントネーションをしている。


「んでも、これで孫たちが生きていけんならなあ」

清之進きよのしんんとこ、他に子おいねえんだっけか」

「ああ、だからまぁた作んねえとな」


 下品な笑い声が消える前、気づけば僕は走り出していた。「うお、びっくりした」、背後から聞こえた声は空気を切り裂く音に紛れて消える。


 安曇清之進は現在の宮司で、かごめの父親だ。


 嫌な予感というのは不確かな響きをしているが、実際は自分のなかに燻る不安を言語化する前の段階をいうのだと思う。そして僕はその不安を言語化することに成功した。成功したのだが、現実的にあってはならない、と思う。


 かごめが供物として捧げられるなんてあってはならない。


 何百年も前のことだったら、生贄などという風習があったと理解できる。でも、法が整備され、科学もそれなりに発展した現代でそんなことを実行すれば当然ながら殺人罪として裁かれるだろう。


 古びた風習だと思う反面、ほとんど閉鎖されたこの村で、価値観が現代に追いついているのかという疑問があった。そもそも、情報が外部に出ることはあり得るのだろうか。


 僕は村外によく遊びに行っていたから、おそらく、それなりに知識があるほうだと思う。


 でも、他の村人たちは。


 村民は安寧を取り戻すために、かごめを犠牲にしようとしている。


 鳥居から本殿まではそれほど離れていない。歩いて一分、走れば三十秒程度だ。雑草に足を取られつつも、なんとか本殿に到着した。周囲に人の姿はなく、風の木々を揺らす音だけが不気味にこだましている。月明かりに照らされた本殿は、いつも見るものと一緒だった。


 鈴の音がした。目を閉じ、聴覚に意識を集中させる。普段とは異なり、音は不規則に鳴っていた。


 人ならざるものが木陰から顔を出しても不思議じゃない、と思えてくる。それくらい、本殿があるこの空間は異質だった。


 僕は心のどこかで、現実は普遍であると信じてしまっていた。生贄などというかごめの発言を冗談で片付けてしまっていた。


 平穏がいつまでも続かないことは、自分が一番わかっていたはずなのに。


 自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。胸のなかで、畏怖、のような感情が膨らみ、呼吸が苦しくなる。息を止めると、鼓動はより鮮明に聞こえるような気がした。


 肺に溜まっていた空気を吐き出したとき、背筋の、凍り付くような感覚がした。木々のずっと奥、たしかに人のかたちをした、白い影を見た。


 心臓の、深く鼓動を刻む音が聞こえる。


 闇は深まっていた。足を踏み出すと、ぱきり、落ちていた枝の折れる感触が靴越しに伝わる。「かごめ様が祀られている」と言っていた方向に、かごめがいるということがなんとなくわかった。やはり僕は呼ばれているのかもしれない、と思う。


 手を前に伸ばし、木の幹でバランスを保ちながら、暗闇を掻き分けるように前を目指す。微かな鈴の音よりずっと大きな音を立てて、足の下で枯葉が砕ける。


 前が見えないというだけでこれほどの恐怖を感じるとは思っていなかった。次第に自分が立っているのか、どの方角へ進んでいるのか、わからなくなってくる。


 黴のにおいが鼻を刺激する。体に妙な重力が働いている。微かに、耳鳴りがする。


 月明かりに茂った葉を貫通するほどの光量はなく、僕は、感覚だけでかごめがいるであろう方向へ進まなければならなかった。


「……あ」


 雑草を掻き分けて進んだ先、そこに祠のようなものがあった。

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