1-4「暗いところにいてね」
神社に通ううちに、安曇かごめが必要以上のお人好しであるということがわかってきた。
例えば僕が切り傷を負っていたら、慌てたように家から救急箱を取ってくる。彼女が消毒を行って絆創膏を貼り、「よし」と笑う様子を、同年代の女子の手ってこんなに滑らかなんだな、と思いながら眺めていた。
幼いころに病気で母を喪ったという話を聞いたのは、いい加減鬱陶しくなってきた髪を切ってもらっているときだった。
「みんなは『早いうちにお母さんを亡くして可哀相』って言うけど、私は全然不幸なんかじゃない。お母さんのこと、あんまり覚えてないしね」
へへ、と笑ったかごめの、明るい声が印象的だった。
「でも、私を産んでくれたお母さんには感謝してる。だから、お母さんがしようとしてたみたいに、村を守りたい。私がもっと偉くなったら、柚沙みたいな人もみんな助けるんだ」
綺麗事だ、と思う。でも同時に、彼女の未来を一緒に夢見てもいいという気持ちもあった。他人との間に築いているはずの壁が、かごめに対して、どんどん薄くなっていくのを感じる。
かごめの親しみやすさみたいなものにまんまと乗せられてしまうのは、少なからず彼女が姉に似ていることが影響していると思う。
僕より三年早く生まれた由は、十五歳という若さで病死した。「いつか治る」とか「元気になったらまた遊ぼう」とか、根拠のない希望を口にする様子は見ていて痛々しかった。
かごめに食糧をもらう代わりに、僕は東京の人の多さや、大阪の味の濃い食べ物の話をした。どれも昔に家族と旅行したときのものだ。
京都の神社がいかに大きいかという話をした際、かごめが悔しそうに「檜神神社も敷地だけなら広いもん」と言ったときは思わず笑ってしまった。
笑うってこんな感じだったと思い出したとき、身体が熱くなった。
姉と母が死んで抜け殻のようになったあの家に僕の居場所はない。「わかるよな」と言われて以来、家で父に遭遇しても、彼は僕のことなど見えていないかのように振る舞う。
外を歩くと村人の視線が痛かった。だから昼間は閉め切った自室のなかで、ただ空が暗くなるのを待つしかない。
だから、夜、かごめと話す数時間が唯一の楽しみになっていた。僕が人生を諦めずに済んでいるのは、もしかしたら彼女のおかげなのかもしれない。
その日、檜神神社へ向かう道の向かいから、自転車に乗る人影が近づいてくるのを見た。こんな時間に珍しいとも、村人と顔を合わせるのは面倒だなとも思った。
自転車との間に数百メートルの距離があるとはいえ、ここは一本道だ。途中で無理に畑を横切らない限りはすれ違うことになる。
とはいえ度重なる不作により畑の土は無造作に盛られているだけだ。畑を突っ切ることもできるし、近くにトラクターが停まっているから、そこに身を隠すこともできる。
正面の人影に視線を戻したとき、ふと、田畑の持つ違和感に気づいた。馴染みすぎていて気づかなかったが、何も育たない畑にトラクターがあるのはどうしてだろう。目を凝らして見てみれば、畑の一部は整備の痕があった。
不作を回復する目処が立ったのだろうか。
少し目を離した隙に自転車は夜の闇に紛れ、一瞬、見えなくなる。ライトくらい付けろよと悪態を吐きたいところだが、それを口に出すことはない。
僕が向かう方角には森が広がっており、山が連なっている。そして、まるで山に人を招き入れるかのように、古びた鳥居がぽつんと佇む。物心がついたときから檜神神社は、村の信仰の対象としてそこにあった。
考えたことはなかったが、果たしてあれは「かごめ様」を祀るために建てられたものなのだろうか。
この村を襲う不況は、神社の守護が弱まったことで、かごめ様の怨念が村に漏れてしまっていることが原因だと言われている。じゃあ、そのかごめ様とは一体何者なんだろう。
そんな僕の思考は、「ああ? お前何やってんだ?」という柄の悪い声に遮られた。顔を上げたとき、最初に警察の制服が見えた。
「なんだ、
「なんだ、じゃねえわ」
籠原は村に二人いる警官のうちの一人で、よそから派遣されてきたため檜神村の出身ではない。
「……警察なのに無灯火でいいの?」
話題を逸らすために僕が指摘すると、彼は慌てたように「アッ」と言った。それからしばらく唸ったあと、「警察だからいいんだよ」、目を泳がせながらおよそ警察とは思えないことを付け加えた。
中学生のころ、籠原は子どもたちの兄的存在だった。言葉や行動は乱暴だが面倒見はいいようで、勤務時間中も交番に行けばよく遊んでくれた。
元は都会で警官をしていた彼が辺鄙な村に飛ばされてきた理由について、当時、同級生間で推測し合ったことがある。そのなかで有力候補として落ち着いたのは、「勤務態度が悪すぎて飛ばされた」という説だった。
「夜中に神社行くと、かごめ様の生贄にされんぞ」
「されないよ。いつの時代の話だよ」
たしかに生贄の伝承はある。でもそれは伝承に過ぎない。かごめも「生贄」という言葉を使っていたが、かごめは彼女自身に関してだけ、そういう重たい冗談を平気で口にするような人間だ。
「こんな田舎の暮らしなんて大昔みたいなもんだろ」
僕に気を遣ってか、彼は「家に帰れ」という旨の言葉は口にしなかった。そういう気遣いはしてくれるけど、警察が間引きの習わしについて足を踏み入れることはしない。
正しい、と思う。村全体の価値観の問題であり、そして家々の問題でもあるこれらについて、警察がどうこうできることではないと理解している。彼の考えは合理的だ。
「ま、気をつけろよ」
外部の人間だからなのか、彼は間引かれた子どもにも普通に接してくれる。村の風習について、彼の上司に当たる
「ライト、つけなくていいんじゃないの?」
点灯したライトを見ながら僕が言うと、「付けないと危ないだろうが」、彼はまじめな顔で振り返った。遠ざかってく背中を見ながら、前に石郡さんに怒られたんだろうな、と思う。間もなく彼は暗闇に溶け込み、見えなくなった。
かごめに会ったら、籠原が無灯火だった話をしてやろう。
いつからか、鳥居をくぐるとき、鈴の音がするようになった。色褪せた木材でできた鳥居には鈴どころか装飾など一つもされていないのに、音が鳴る。
どこからしているのかはわからないし、くぐった瞬間に聞こえるのも不気味だ。
獣道のような参道を歩くと、すぐに本殿がある広場に出る。村人三〇〇人が集まると余裕がなくなる程度の広さだ。鎮魂祭のときは屋台が出て、人の熱気と、屋台飯のにおいでむせ返る。でも子どものころはその圧縮された喧騒が楽しかった。
ちりん。また、鈴の音が鳴る。森に背を向けて座ると背後から何かに襲われそうな気がして、立ち上がり、本殿に背を預けてかごめを待つ。
鈴の音はいつも同じ方向からしていた。
「そっちはかごめ様が祀られてるから」、かごめの言葉を思い出す。目を凝らしても、何も見えない。
こんな僕に心から優しくしてくれるのはかごめだけだ。今日は何を話そうか考えながら、社務所へ続く道をぼうっと眺める。
ふとした瞬間、彼女の横顔や声を思い出して胸の辺りが軽くなるときがある。それに、かごめと一緒にいる間は、本能的に恐怖を感じる暗闇も、心を襲う憂鬱な気持ちも、一切湧いてこなかった。
だから、かごめがいないこの場所はひどく黒ずんで見える。
木々が植わっているはずなのに、月明かりでは景色にすらなれないその場所には、果てしない闇が広がっているような気がしてならなかった。
なんとなく一人でいるのが場違いな気がしてきて、「遅いな」、わざわざ口に出してみる。無機質になった声が僕の足元に落ちている。
がたん。背後から聞こえた音に心臓が跳ねた。おそらく、風で本殿の扉が揺れただけだろう。直後に木々が揺れたことからもそれは間違いなさそうだった。
よく見ると、本殿を形成する木材はささくれていた。格子状になっている場所があるため内部の様子は見えるが、祠や神棚がある様子はない。よく見たら紙垂も雨風に曝されて久しい様相だった。
森の奥に人影を見た気がした。黒板を爪で引っかいたときのような、不快な震動が背中を突き抜けていく。かごめ、と発したつもりの言葉は声にならなかった。
彼女が幽霊を怖がる理由がなんとなくわかる気がした。底の見えない暗闇は怖い。
その日、かごめは姿を現さなかった。
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