第79話 その薔薇、本当は赤かったんですか?

 どこまでも無限に広がる灰色の静寂しじま

 主人を失くし存在意義を失った世界。


 死が訪れる事もなく、ただそこに在るだけのかつて繁栄を極めた花の都。今では氷に閉ざされ動くものは何も無い。


 この世界を支配するのは静寂と氷と、そして雪……


 ――ふわり……


 一部の隙もなく空を覆う黒灰色の曇天からこの世界の支配者の一角である白き妖精が舞い降りる。それは冷たく、美しく、全てを白へと染める無慈悲な妖精。


 彼らは次から次へと曇り空から降り注ぎ、大地を覆い尽くしていく。


 ――と、


 何も無かった世界に突如としてまばゆいばかりの光の柱が立ち昇った。


 それは世界を支配していた静寂を破り、今しがた降り積もった周辺の雪を吹き飛ばし、天を覆う厚い雲の一部を穿つ。


 やがて、光の柱が徐々に小さくなっていき完全に収束すると、その場には一組の男女が姿を現した。


 全てが白で染まった美しき雪薔薇の女王ネーヴェと対照的に黒い髪と黒い瞳が妖しいトリナの王子トレヴィルである。


 ネーヴェをしっかり抱きとめていた腕を緩め、トレヴィルは周囲を見回した。


「ここがネーヴェのいた世界」

「ほんに寂しいところであろう?」


 ネーヴェも広漠とした世界をちらりと見たが、それからすぐにトレヴィルへと視線を戻した。


「後悔しているのではないか?」


 ネーヴェの表情は以前の無機的なものであったが、鉛色の瞳の奥には不安で揺れる光が見えた。


「こんな何も無い世界に閉じ込められるとは思うておらんかったじゃろう」


 氷雪の牢獄は心さえも凍らせる。こんな世界を前にすれば熱い愛も凍りついてしまうのではないか、トレヴィルもやはり自分を見限るのではないか、そんな不安を誤魔化すようにネーヴェは少しおどけた口調で訊ねた。


「ふっ、何も無い、なんて事はないさ」


 だが、トレヴィルは事も無げに笑いネーヴェの細い腰に腕を回した。


「この世界には君が……ネーヴェがいる」

「全く……ほんに呆れた大馬鹿者じゃ」


 そう言いながらもネーヴェは少しホッとした。


 空を見上げれば穿たれた大穴も次第に小さくなり、やがて完全に閉じると辺りはまた氷と雪が支配を取り戻す。


 世界が静寂と冷気で二人を包み込んだ。


「やはり、ここは冷たく寒いのじゃ」

「こうして抱き合えば温かい」


 トレヴィルは再び腕に力を篭める。ネーヴェは逆らわずトレヴィルの胸に擦り寄るように身を預けた。


「刻も凍った永劫の世界でずっとこうしておるつもりかや?」

「ああ、ずっとネーヴェを腕の中に閉じ込めておくよ。ずっとね」


 少し腕を緩めるとトレヴィルは正面からネーヴェの鉛色の瞳を見つめた。ネーヴェも真っ直ぐトレヴィルの黒い瞳を見返す。


「ネーヴェ、俺は君に愛を誓う」

「この永劫の刻をずっと?」

「ああ、永遠に君を……俺はネーヴェを愛している」

「妾も……妾もおぬしを、トレヴィルを愛しておる」


 鉛色の瞳と黒色の瞳の距離が少しずつ狭まる。そして、二人の想いが交差して唇と唇が重なりあった。


 愛おしくてトレヴィルはネーヴェの腰に回した腕に力が入る。


「ンッ……」


 ネーヴェの口から僅かな喘ぎ声が漏れる。だが、ネーヴェは拒まず、むしろトレヴィルの背に手を回して全てを受け入れた。


 長い間、抱き合ったまま二人は互いの愛を確かめる。どれくらいキスを交わしていただろう。自然に二人は腕の力を抜いて唇を離した。


「ずっとこうしていたいな」

「妾もおぬしの腕の中で抱かれていたい」


 ネーヴェはトレヴィルの胸にしなだれ、トレヴィルはネーヴェの細い身体を受け止めた。


「温かいのじゃ」

「ああ、俺もネーヴェの温もりが愛おしい」


 二人の体温が混じり合う。それは互いの想いも混じり合っていくようで、ここに二人の愛が結実した。


 ――だから……


「ネーヴェ! 胸の薔薇が!?」

「なっ、指輪の刻印も色が!?」


 ネーヴェの胸に咲く白き薔薇が花びらを閉じ蕾になると再び開き赤い薔薇へと変貌し、雪薔薇の指輪のレリーフの薔薇が白色から赤色へと塗り変わった。


「これは……約束の薔薇プロメスローゼじゃ」

「それじゃあネーヴェは力を……」


 トレヴィルの言葉は途中で遮られた。再び二人は光に包まれたからだ。氷雪の大地に再び光の柱が立ち昇り、それは世界全体を覆い尽くす。


 そして、光が消えると黒灰色だった空はどこまでも澄んだ青色に、灰色だった大地や建物はそれぞれの色を取り戻していた。


 しかし、色を取り戻した世界のどこにも二人の姿は無く、ただネーヴェが佇んでいた場所に白い花が一輪だけ風に揺られていた。

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