第78話 その二人、真実の愛を貫いたのですか?

「いつ妾が正気であると分かったのじゃ?」


 差し出された雪薔薇の指輪には一瞥もくれず、ネーヴェはトレヴィルをジッと見つめた。


「最初に君の元に辿り着いた時」

「割と最初からじゃな」


 ネーヴェは苦笑いを浮かべた。


「妾は演技が下手なようじゃ」

「それだけの力がありながら、俺達を遠ざけるだけで決して傷つけようとしていなかっただろ」


 ウェルシェ達は誰一人として大怪我を負っていない。これだけの戦力差があるのにだ。ネーヴェが手加減をしていた証拠である。


「君が暴走したままのフリをして俺達に封印されようとしていたんだね?」

「イーリヤなら妾を止められると……いや、永遠とわなる眠りにつかせてくれる。そう思ったのじゃ」


 ネーヴェの願い――それは封印ではなく安らかな死。


「あの氷と雪の牢獄はもう嫌じゃ……あそこは何もかも、刻さえも凍らせる。故に永劫の時をただ一人で氷と雪の中で生きてゆかねばならぬ」


 身体が凍り心も冷え冷えとするのは辛い、ネーヴェの瞳から熱い雫が頬を伝って流れ落ちる。


「さりとて、約束の薔薇プロメスローゼを失った妾はいつまた力を暴走させとも限らぬ」

「だが、イーリヤには君を殺せない」

「そうじゃな。あの娘は優しすぎる」


 イーリヤの力を知って、ネーヴェは自らの生を終わらせる事を考えた。しかし、どんなに力があってもイーリヤがネーヴェを手にかけるなどあり得ない。


「そんな事さえも分からなくなるほど妾は疲れておったのじゃ。もう他者を傷つけるのに耐えられぬ」

「この場の誰も君を傷つける事はできない」

「お人好しばかりじゃ」


 ネーヴェが寂しく笑う。


「この時代に解き放たれ、出会うた者はみな温かかった」


 ほんの1ヶ月ほどの出来事なのに、ネーヴェにはあまりに多くの優しい経験だった。


「この街まで運んでくれたマテウとミーシャ、ここで迷っておった妾に声をかけてくれたイーリヤ、いつも周囲に気を配る明るい娘キャロル、それにウェルシェは楽しい娘であったの」


 ネーヴェはくすくすと笑う。


「ほんに夢のような時間であった」


 楽しかった。心の奥からネーヴェはそう思う。


「妾の胸の奥の氷も溶けて、ぽかぽかとするのじゃ」


 胸に手を当てれば氷のように冷たいシコリはいつの間にか消えていた。心の奥にあった氷をみなが溶かしてくれた。


「今日一日の出来事なのに何もかもが懐かしく思える。今日という日は妾の大切な記憶たからものじゃ」

「これからも、いっぱい思い出はできる。きっと、たくさん宝物はできる」


 イーリヤがいて、キャロルがいて、ウェルシェがいて、今日この学園で出会った人々がいて、未来に出会う人々がいる。そんな温かい人との繋がりをネーヴェにあげたい。


 それがトレヴィルの思い。


「俺達と一緒に作っていこう」


 温かい人々に囲まれて中心にはネーヴェとトレヴィルが幸せそうに笑っている。そんな幸せな記憶をネーヴェに与えたい。


 それがトレヴィルの願い。


「ネーヴェ、俺は君の傍にいたい。ずっと一緒にいて欲しい」


 トレヴィルは手の平に指輪を乗せて差し出した。その手を取ってと願いを込めて。ネーヴェと手を取り合い未来を築いていく事がトレヴィルの夢。だから。


「愉しい時間ももう終わりじゃ」


 しかし、ネーヴェは首を横に振ってトレヴィルの手を取らなかった。


「これまでは全て泡沫の夢よ。どれほど楽しくとも夢はいつかは覚めるものじゃ」


 ネーヴェは涙を流しながらも笑顔を作る。それは今までで一番美しい笑顔、トレヴィルにはそう思えた。


「もう終わりにせねばならん。おぬしが妾を封じるのじゃ」

「君を一人にはさせない!」

「トレヴィル、聞き分けるのじゃ。妾がここにいては、凍りついた者達がいつまでも元に戻れぬ」


 それに、とネーヴェは胸の白き薔薇に触れながら付け加えた。


「この薔薇が白いままでは妾はまた誰かを凍らせてしまうじゃろう」

「それでも俺はずっと君といる」


 トレヴィルは指輪を持つ手でネーヴェの手を取った。


「君が氷と雪の牢獄へと戻るのなら、俺のいるべき場所もそこだ」

「おぬし!?」


 ネーヴェは目を大きく見開き、信じられないと首を振る。


「おぬしは自分の言っている意味が分かっておるのか?」

「言っただろ。俺は君に真実の愛を届ける為にここに来たって」


 二人の握った手に力が篭る。


「俺は君への愛を示すのに言葉を用いた。だけど愛は言葉じゃない。それじゃダメだったんだ。全ては行動で君に示すべきだった」

「だから妾と共に行くと?」


 ネーヴェの胸に複雑な思いが混ざり合う。それはトレヴィルへの罪悪感とこれから訪れる悲運に対する苦しみと悲しみ、それ以上にトレヴィルの真摯な愛への喜び。


「やはり、おぬしを連れては行けぬ」


 トレヴィルの想いは嬉しくはある。いや、嬉しいからこそトレヴィルを巻き込めない。だってトレヴィルの想いを受けてネーヴェの心はとても熱くなっているから。


 それはネーヴェがトレヴィルを……


「あそこは氷と雪に閉ざされた身も心も凍らせる場所じゃ」


 だからネーヴェはトレヴィルを思い止まらせなければならない。


「ネーヴェがいればきっと何もかもが温かい」


 だが、トレヴィルは迷わず答えた。


「何もかも、空も大地も全てが灰色の寂しい場所じゃ」

「ネーヴェがいればどんな世界もきっと色付く」

「空虚で何も無いほんに寂しい場所じゃぞ?」

「ネーヴェ、君がいるじゃないか」


 トレヴィルはネーヴェの指に自分の指を絡めていく。


「どんな世界も二人なら寂しくない」

「この大馬鹿者……」


 ネーヴェもトレヴィルの手に応え、二人は指を絡めてしっかりと握った。


「妾と来ても何も得られぬであろうに」

「真実の愛は見返りなど求めない」


 トレヴィルは優しく微笑んだ。


「ただ君と共にあればそれで良い」

「妾もそなたと共にありたい……」


 握り合った手から光が溢れる。その光は王都中に広がっていき、その場の誰もがあまりの眩しさに目を瞑った。


 そして、光が収まった後にはネーヴェとトレヴィルの二人の姿はどこにもなかった。灰色に染まった世界に色が戻り、あれだけいた雪だるま達も綺麗さっぱり消えている。


「ネーヴェは? トレヴィルは? 二人はどこ?」


 イーリヤの問いにみなが周囲を見回すが、どこにも見当たらない。


「ウェルシェ、二人の魔力を追って!」

「無理よ分かるでしょ?」

「無理って言うな!」

「今度ばかりは本当に無理」


 ウェルシェは首を振った。


「辺りが正常に戻ってる。凍りついていた人達の魔力も感じられるようになったわ」


 つまりそれはネーヴェの力が封じられた事を意味する。


「だって、だって、それじゃ二人は……」

「きっと、みんなを救う為に二人で封印されたのね」


 ウェルシェの無慈悲な回答にイーリヤの赤い瞳から涙が溢れ出す。


「そんな……こんな結末じゃ誰も幸せになれないわよ!」

「あの二人を不幸なんて言ってはダメよ」


 いつになく真剣な表情のウェルシェをイーリヤは呆然と見つめた。


「だって、二人は自分達の愛を貫いたのですもの」


 ウェルシェの翠緑の瞳が遥か東の空を見上げた。

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