第46話 そのヒロイン、ベーコンレタスが大好物だったんですか?

「い……や……エーリック……様……」


 顎を持ち上げられたウェルシェは何故か上手く抵抗できない。


「忘れてしまえ……エーリックの事なんて全部……」

「ダ……メ……」


 トレヴィルの唇が近づく。


(嫌、嫌、嫌、嫌、こんなの嫌ぁぁぁ!)


 頭では駄目だ嫌だと判断しているのに、どうしてだか身体が言う事を聞いてくれない。


「俺だけを見ろよ」

「ト、トレ……ヴィル……様」


 ウェルシェの中のエーリックへの想いが、トレヴィルにドス黒く染められていく。


(もうダメーーーッ!!!)


 覆い被さるようにトレヴィルの顔が迫る。腕で撥ね除ける事も顔を背ける事もできず、ウェルシェはギュッと目を瞑った。


 ウェルシェの唇がトレヴィルの唇に穢される、と思ったその瞬間――


「ああーーーーーッ!!!」


 つんざくような叫び声が闘技場に響き渡った。


「こんのぉッ! また抜けがけしてぇ!!」


 全ての者の視線がその貫くような喚き声に集中する。


「トレヴィルはレアな隠れキャラよ。ヒロインである私が攻略するんだからぁ!」

「ア、アイリス様!?」


 そこには眉を吊り上げ凄まじい形相のアイリスがプンプンと全身で怒りを露わにしていた。


「なにこんなとこで抱き合ってんのよ!」

「えっ?……あっ、なっ……」


 アイリスの声がきっかけでウェルシェはように思考がクリアになり、硬直していた体が思考とリンクし始めた。


「いっ、いっ……」


 そして、トレヴィルに抱き締められている嫌悪感がふつふつと湧き上がる。


「いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 ――ドガシッ!!!


「ゔげッ!?」


 中国の山奥にある大瀑布さえも逆流させそうなウェルシェの右アッパーがトレヴィルの顎に炸裂!


 無防備な顎にもろ入った強烈な一撃に、トレヴィルはカエルが潰されたような短い悲鳴を上げ吹き飛んだ。


「私に何してくれてんですか!」


 トレヴィルに迫られた嫌悪感、勝手な事をほざくトレヴィルに言い返せなかった悔しさ、そしていいようにされていた自分への怒り……


 先程までトレヴィル一色にされかけていたウェルシェの胸に様々な感情が一気に爆発した。


(こんなの一時の気の迷いよ。そうよ、私がこんなスケコマシに……)


 もっとも嫌うはずの人種に抱き締められ、あまつさえキスまでされそうになった事実はウェルシェには受け入れ難い。


(私がエーリック様以外の殿方に……って、エーリック様!?)


 その時になってウェルシェはこの場が大衆の面前であり、当然その中には愛する婚約者がいる事に思いいたった。ウェルシェが慌ててバッと振り返ると、そこには目を大きく見開いて呆然とするエーリックがいた。


(い、今のエーリック様に見られた!?)


 どんなに弁明をしても他の男性と抱き合いキスをしようとしていた事実は覆せない。これはどう見ても浮気である。


「ウェ、ウェルシェ?」

「エーリック様……これは……違う……違うんです……」


 目を丸くするエーリックにウェルシェはなんとか言い訳を口にしようとした。だが、いつものようにスラスラと言葉が出てこない。


「本…当に……わ、私、違ッ!?」


 ――ぽろり……


 ウェルシェは上手く言い訳ができず、何故か涙が溢れて零れて落ちた。感情が全くコントロールできない。


「ごめんなさい……私!」


 居た堪れなくなったウェルシェは、サッと踵を返すと逃げるように走り出した。


「待って、ウェルシェ!――いてッ!?」


 エーリックは制止の声を上げて追いかけようとしたが、試合の興奮が冷めたせいで足の痛みが今になって一気に襲ってきたらしい。堪えきれエーリックはずうずくまってしまった。


「ははは、君はそこで指をくわえて見てるといい」


 ウェルシェのクリーンヒットから回復したトレヴィルが、エーリックの無様な姿をふんっと笑う。


「ウェルシェは俺が慰めてやるよ」


 そして、エーリックを置き去りにトレヴィルは猟犬よろしく獲物ウェルシェの後を追った。


 否、追おうとした――のだが……


 ガシッ!


「に〜が〜さ〜な〜い」

「ヒィッ!?」


 いきなり背後から腕を掴まれ、振り返れば目が合ったアイリスがニタァと嗤う。


「な、なんなんだ、お前は!?」


 トレヴィルが幾ら振り払おうとしても、万力に締め付けられたように全く微動だにしない。


 学園屈指の魔力で身体強化したアイリスはゴリラにも勝る。トレヴィル程度の筋肉ではびくともしないのだ。


「離してくれ」

「あんな木っ葉悪役令嬢よりも私を見て」

「俺が愛しているのはウェルシェだ」

「笑わせないで」


 トレヴィルの空々しいセリフをアイリスは鼻で笑った。


「最初はオーウェンの婚約者であるイーリヤに迫ってたじゃない」

「あ、あれは……そう、真実の愛だ……俺は真実の愛に気がついたんだ」

「なぁにが真実の愛よ。母親に言われただけのくせに」

「――ッ!?」


 そう、アイリスは全てを知っていた。


「おかしいと思ったのよ。ゲームではマルトニアの弱体化を狙ってイーリヤに近づいていたはずなのに、何故か今年になってウェルシェに急接近だもん」

「な、何を言って……」

「オーウェンが廃嫡されそうになってるって知って分かったわ。母親の命令に沿った行動ならそうなるわよねぇ」


 なんて事はない。オーウェンが失脚しそうになったからエーリックの婚約者に狙いを定めただけなのだ。


(なんだこの女は?)


 背筋に冷たいものが流れ、トレヴィルはゾッとした。


 トレヴィルの来国の目的も、彼の抱えている闇も、その何もかもをゲーム知識で得ていたのだ。


「安心して、私はあなたの味方……私があなたの全てを受け入れてあげる。あなたの心を救えるのは私だけだもの」

「べ、別に俺はお前の助けなんて……」

「母親に逆らえず、その鬱憤晴らすのに女性を口説いて貶める……だけど、けっきょく自分を傷つけてしまっている優しい人」


 つまりトレヴィルはマザコンで、その事実を受け入れられずスケコマシとなって愛や女性を馬鹿にして精神の均衡を図っているだけの男だった。


 それだけの男だったらアイリスも攻略しようとは思わなかっただろう。


 マザコン男なんてノーサンキューなのだ。


「でも、私なら母親の呪縛からあなたを解放してあげられる」


 しかし、アイリスは知っている。


「ふふふ、マザコン腹黒スケコマシが母親の枷から解き放たれた時、めっちゃワイルドなイケメン王子に変貌するのよ」


 攻略が成功すれば、イケすかないだけの男が本物の野生味溢れる頼れる王子へと一気に成長する。その変貌ぶりギャップに何人もの腐女子がトレ×エルだのオー×トレだののカップリング論争で血を血で洗った。


「そして、私の最推しはトレ×エルよ!」

「何を言っているんだ君は!?」


 両拳を胸の前で握って力強く意味不明な宣言をするアイリスに、ただただトレヴィルはドン引きするのだった。

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