第3話 BRUTAL NUMBER GIRL

 血塗れの内臓を掻きだし、裂かれた腹に指を突っ込む。指先で肋骨のおくを探り、背骨に指を這わせて血が含まれた膜を破る。

 爪のあいだに血が入り込んでくるのが分かる。それには構わず、指先で背骨を何度も何度も擦る。

 そしてシンクに突っ込み、冷たすぎる水で血を洗い流す。

 血がシンクを染め上げ、渦を巻いて排水口に流れ込む。

 まだ午前六時。追浜駅前のスーパーの鮮魚コーナーの作業場。

 蛍光灯の乾いた灯りのしたで香椎燎は作業着を着こみ、血だらけのエプロンを濡らしながら黙々と作業を続けていた。

 作業場には燎のほかに四人おり、それぞれの作業をしている。

 社員の梶原周一は鮭やサバやブリを次々と切り身にして、パートの近藤弘美の作業台に渡している。近藤はそれらを手際よくパック詰めしている。その隣では安斎悟志が柳刃包丁で刺身を切り続けている。

 水が流れ続けているシンクのそばにいるのは燎と、一番バイト歴が短い路木和彦だ。

 路木が流水で洗い、鱗を剥がした魚を燎は受け取り、ひたすら頭を切り落とし、腹を裂き、内臓を掻き出して、血合いと呼ばれる腎臓を指で潰し、洗う。

 それを朝から昼間までひたすら続ける。

 魚の鮮度を保つために作業場は一年中、十度以下に保たれている。使われる水は氷と変わらないくらいに冷たい。作業によっては厚い手袋を着けられるが、燎が受け持つ洗浄作業は魚を傷めないように素手でするしかない。手は冷たさでかじかみ、すぐさま感覚が失われる。

 さらに毎日の作業で魚の血や脂が皮膚にしみこみ、魚臭さが染みついている。バイトが終わり、気分転換に飲み物を買っても、飲むときには魚の臭いが鼻をつく。

 こんな思いをしても、時給はほぼ最低賃金だ。

 工業高校を半年で中退した燎ができるバイトは限られている。

 隣で不器用に鱗を剥がしている路木が汚らしく鼻をすする。

 燎ははっきりと、大きく舌打ちをした。

 鱗を剥がしながら路木が身を縮める。

 その様を、燎は流れ続ける水よりも冷たい目で見下す。

 燎の冷たい視線を感じ取った路木は瘦せ細った体を縮め、シンクの奥へ奥へと視線を沈み込ませる。その様子がさらに燎を苛立たせる。

 洗い終わった魚をみっしりと入れたトレーを力任せに作業台に叩きつける。

 甲高い金属音が響き渡る。

 路木は腰を引かせ、肩をすぼめて、燎から体を遠ざける。

 その様子を遠くで見ていた安斎悟志が燎に声をかけてきた。

「なんだよ、香椎、機嫌悪いじゃん」

 すでに安斎の声には嘲りが含まれている。

「別に、普通ですよ」

 ぶっきらぼうに燎は答える。視線はあげず、まな板のうえのサバに向けられている。

「あれか、また母ちゃんが目の前で男とヤッテたのか」

 言って安斎は、さも面白いことを言ったかのように大声で笑う。燎は視線を鋭くしただけで答えない。サバの頭を出刃包丁で切り落とす。背骨を断ち切る感触が手に伝わってくる。

 黙っている燎を面白がったのか、安斎はさらに声を大きくして燎に言う。

「香椎さあ、それ見てオナニーとかしてないよな。お前ならやりそうだよなぁ、自分の母ちゃんでオナニー」

 そしてまた、一人だけで爆笑する。燎は黙ったままサバの腹を裂いて内臓を掻き出す。赤茶色の内臓がまな板の上に引きずり出される。

「あら、香椎くんそんなことしているの。いやらしい」

 パック詰めの作業をしていた近藤弘美が好色そうな目を燎に向けながら言った。五十を越えている近藤は丸々とふとり、作業着に包まれた胸ははち切れそうだ。

「しませんよ、そんな気持ちの悪いこと」

 ぼそりと燎は言う。

「本当か、してんじゃねえのか、おまえ。なんかおまえさあ、年上が好きそうだもんな。いや、マザコンなのか」

 なんの根拠も理由もなく安斎は燎に言ってくる。無視していると、今度は近藤が口を挟んできた。

「香椎くん年上が好きなの? 私が相手をしてあげようか?」

 まるきり冗談ではないような眼差しで近藤は燎を見つめた。燎は血合いを押し潰したサバを冷水で洗いながら、うるせえんだよ糞婆、と水が流れ落ちる音に紛らせて言う。

「えー、香椎よりさきに俺の相手をしてくださいよ、近藤さん」

「いいわよ、いつでもしてあげる」

 寒々しい作業場に安斎と近藤の笑い声が響き渡った。

 路木は身を縮めて鱗を剥がし、社員の梶原は引きつった笑みを口元に張りつけたまま作業に没頭している、ふりをしている。

「糞どもが」

 言って燎はサバの死骸に親指を突き入れた。

 爪が骨を折り、指先が肉を押し潰す。

 笑い声が頭の中に侵入してきて、脳みそを攪拌しながら鳴り響く。

 生傷が残っている燎の手はサバを握り潰していた。

 骨やヒレが燎の手を切り裂いたが、その痛みが心地よかった。

 痛みこそ、燎が信じられる唯一の感覚だった。


 階下で母親が朝食の準備を進めるなか、木川敦彦は腹部を押さえ、涎をフローリングの床に垂らした。痛みが内臓から肛門のほうへと沈み込んでいく。

 重い痛みに呻いたが、兄の木川恭一は気にもせず部屋を出て階段を降り、母におはようの挨拶をした。とても明るい声で。

 敦彦は兄の恭一に、腹部を数回力任せに殴られた。四歳年上の恭一は高校、大学とラグビーをしていた。建設会社に就職した今も体重は九十キロを超えている。痩せた敦彦とはまるで体格が違う。兄の暴力に抗う術が敦彦にはない。殴られた理由は分からない。

 まだ寝ていた敦彦の部屋に突然やってきて、長い髪の毛を鷲掴みにされ、上半身を起こされて急に殴られた。

 声は出せなかった。

 もし悲鳴をあげて父や母にバレたら、そのあと兄に何をされるか分からない。

 しばらく腹を押さえて丸まっていた敦彦は、部屋の中に気配を感じて顔を上げた。

 涎を垂らしながら身を起こす。

 すぐ隣に、妹の繭が座り込んでいた。

「繭・・・・。おはよう」

 木川繭は薄く笑いながら、おはよう、と小さな声で言った。朝から部屋で繭と一緒にいると恭一には知られたくなかった。恭一は敦彦と繭が親しくすることを何よりも嫌う。

 繭が白い手を伸ばして敦彦の口元を拭ってくれた。とても冷たい指が涎をふき取る。

 敦彦は繭に、口の中だけでありがとうと言った。何もかもを承知している繭がこくんと頷く。

 敦彦は眉を見つめながら、寝間着にしているシャツを脱いだ。

 薄暗い部屋の中でも分かるほど白い素肌にはいくつもの痣があった。恭一から受けた暴力で出来た痣だ。

 口元を拭っていた繭が、敦彦の上半身に触れていく。冷たい指先が肩に、胸に、腹部にと痣から痣へと這いまわる。

 繭に痣を撫でられながら、敦彦は繭に問いかける。

「どうして兄さんはこんなことするのかな」

 繭は色の薄い瞳で敦彦の痣を見つめながら言う。

「それはあなたがそんなだからでしょ」

 敦彦は黙って這いまわる繭を指先を目で追う。

「あなたがずっとそうだから、お兄ちゃんは我慢が出来ないのよ。あなたがお兄ちゃんに悪い種を植えつけているの。あなたがいなければ、お兄ちゃんはそんな苦しみを知ることもなかったのに」

 ぐっと、繭が顔を近づけてきた。

「みんなあなたが悪いんだよ」

 そして顔を離すと、繭の右手にはカッターナイフが握られていた。

「あなたも、こんな体、いらないでしょ? お兄ちゃんも、あなた自身も苦しめるだけの体なんていらないでしょ?」

 そう言いながら繭はカッターナイフの鋭い刃先を敦彦の肩に乗せた。

 繭の指先よりも冷たい刃先。

「いらないよ、こんな体」

 言って繭はカッターナイフを躊躇なく引いた。

 まるで脂肪がない、肩甲骨が浮き出た肩の皮膚が切り裂かれ、血があふれ出し、痣だらけの皮膚にこぼれ出た。

「いらないよ、こんな体」

 なんの躊躇いもなく、今度は胸を切り裂く。

 赤い切れ目と、こぼれ出る血。

「いらないよ、こんな体」

 さっき殴られたばかりの腹を横一文字に切り裂く。

 ぽたぽたと零れ落ちる血が寝間着のズボンに赤い水玉模様を作っていく。

 敦彦は、カッターナイフを振るって自分の体を切り裂いていく繭を、陶然とした眼差しで見つめていた。

 この野蛮さだけが敦彦を救ってくれる。

 右の上腕部を深々と切り裂かれながら、血を踊らせる繭に敦彦は言った。


 ありがとう。


 そのとき、カッターナイフの刃先が首にひたりと押しつけられた。

 敦彦は黙って頷いた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボーイズ・ドント・クライ カタオカアツシ @konoha1003fuyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る