第2話 爪痕

 それは小さく引っ搔いて、かすかな傷を頬に残していった。

 国道十六号線の方向から聞こえてきた少年の悲鳴。

 悲鳴は棘だらけの醜い昆虫として木川繭に迫り、そして、はっきりと血の臭いを残して飛び去って行った。

 繭は悲鳴が飛んできた方向を一瞬、見つめ、そして駆け出した。

 湘南鷹取跨線橋へと下る急な階段を駆け下りる。

 繭の動きに反応したのか、虹色に光っていた蛍たちがいっせいに真っ赤になり、暗い土手に鮮血をまき散らした。

 その照り返しに染められ、繭の白い肌はより冷たさを増し、瞳は赤い光りを灯した。

 そのまま湘南鷹取跨線橋の歩道に飛び降りて、高々と柵がそびえる高架に走り込む。

 国道十六号線の交通量は多いが、湘南鷹取跨線橋に進入してくる車はほとんどない。灯りは、そびえる柵に絡みついた銀色の蛇の、鱗が反射させている月光だけだ。

 繭はそんな暗い高架を駆け抜ける。

 さきほど悲鳴が聞こえた国道十六号線は、車が走り去る音が聞こえるだけだ。

 走る勢いもそのままに、大きく湾曲したカーブに入り、高くて白い壁に見下ろされながら廃墟に近づく。

 白い壁のうえでは目の口と耳がない、黄色い体毛の大きな猿たちが身を寄せ合って繭の気配を濡れた鼻先で追っていた。

 かなり近くで少年の怒号が聞こえた。

 それははっきりと、憤怒の形相をした血塗れの少年として繭の心に現れた。

 廃墟に飛び込む繭を睨みつけている。

 怒り狂っている顔の奥に、繭はかすかに、抑えきれない歓喜を感じ取った。

 血で遊ぶ悪鬼だ。

 わたしと同じかも。

 そのとき繭は悲鳴を聞いた。

 さきほどまで渦巻いていた憤怒が、たちまち哀しみに変わった。

 まだ待ってて。

 廃墟に飛び込み、埃っぽいエントランスを飛び越え、降りかかってくる赤ん坊の顔をした羽虫を払いのけ、人の指が連なったムカデを踏み潰し、幾万の小さな呪詛の言葉を全身に浴びて、繭は満面の笑みでそこに飛び込んだ。

 そして繭は羽化をして、真っ赤な天使になった。


 長身の男子生徒がポケットからナイフを取り出したとき、香椎燎の魂の温度は二度ほどあがった。凪いでいたものがほんの少し泡立つ。

 男子生徒は刃渡り十センチほどのバタフライナイフの刃を飛び出させると、それをしっかりと順手で握って突き出す。

 顔は紅潮し、目には凶暴さが宿っていた。

 先ほどまでの冷静さはない。

 そういうことか、とやや泡立ちかけた燎の心は静まっていく。

 男子生徒はバタフライナイフを順手に持ったまま駆け出した。刃先は夜空に向き、拳がこちらを向いていた。

 ほど良く日に焼けた綺麗な拳。

 燎はもう一度、小指からしっかりと拳を握り締め、そして、親指で固めて鋼にする。燎の拳は瘡蓋と生傷が混ざり合い、夜の中ではどす黒い。

 バタフライナイフを握り締めた男子生徒の拳が迫っていた。後ろ足を小刻みに後ろにずらしながら燎は距離を測る。

 突進してくる男子生徒の顔は引きつっていた。

 これから自分が何をすればいいのか分かっていない。ナイフという魔法の道具を出せばすべてが解決すると思っていたのに、何も変わらないから混乱している。自分が目の前の人間をナイフで傷つけることを受け入れられていないのに、そのときは刻々と近づいてくる。

 ダメだダメだ、ダメだダメだダメだっ!

 そういう奴は、こっちの水槽に入ってくるな。

 この水槽は、そんな奴が泳げる水じゃない、呼吸ができる水じゃない、生きていける世界じゃない。

 燎は脳天から肩、背中から腰、そして後ろ足までに一本の意識の糸を通した。それをピンと張りつめたまま反対の右足を素早く引く。

 脳天から後ろ足まで通った糸の張りつめが最大限になったところで、突進してくる男子生徒の姿を目で射貫きながら、糸の張りを開放して何の力も込めずに引いた右足を、怒号とともに前に振り出した。

 ナイフを握った手が目の前に迫っていた。

 鋭い切っ先が燎の胸めがけて突き出される。

 そのときになってようやく、ナイフは平行になった。

 今にも泣きだしそうな男子生徒の顔がまじかに見えた。

 人生で一度も、誰かに殴られたことがない顔だ。

 ナイフが燎の胸に迫る。

 そして、突き刺さった。

 繭が聞いた二度目の悲鳴だった。


 天使になった繭は自分の体を抜け出して夜空に舞い上がった。

 廃墟の、レクリエーション室の、壊れかけた卓球台の下に繭の体は横たわっていた。

 夜空に舞い上がるとき、天使になった繭は自分の抜け殻を、火の粉を涙のように零す瞳で見下ろした。

 身を丸め、両手で膝を抱え、繭は床にいた。

 その肉体を忌々しいもののように一瞥して大きく羽ばたく。

 繭は月が輝く夜空に焔色の鱗粉を振りまいて、悲鳴がするところへと舞い降りていった。


 国道十六号線に悲鳴が響き渡った。

 腹を抱えて歩道にうずくまる。

 悲鳴のあとには赤ん坊のような泣き声がしだした。

 ナイフは少し離れたところに落ちている。

 血を一滴も吸わぬままに。

 燎が解き放った右足の前蹴りが男子生徒の左の肋骨に突き刺さったのだ。

 急所の鳩尾はわざと外した。

 ダメージよりも痛みだ。

 肋骨は間違いなく何本も折れた。

 格闘技もしていない、喧嘩の経験もない人間はアドレナリンの分泌が少ないから痛みに弱い。肋骨が折れればたいていは動けなくなる。スポーツ選手が怪我をすると動けなくなり、格闘家が怪我をしても戦い続けられる違いはそこにある。

 痛みに弱い奴はこっちには来れない。

 遠くで誰かが走り出した気配がした。三人の中ではわりとダメージが少なかった、背中に膝蹴りを食らった奴だろう。

 一番近くのコンビニに駆け込んで助けを求めるか、それとも公衆電話で親に電話を掛けるか。どちらにしても警察が来るまで二十分はある。

 遊びの時間は終わらない。

 燎はうずくまっている男子生徒に歩み寄り、無造作に腿をつま先で蹴った。

 小さな悲鳴をあげて男子生徒が身を縮めた。

 私立高校でサッカーをしていると言っていた。

 半年はできない体にしてやるよ。

 何度も何度も、強弱をつけて腿を蹴る。

 その執拗な攻撃に、顔を伏せていた男子生徒が恐る恐る顔をあげた。

 男子生徒と目が合った。

 燎は冷たくそれを見下ろす。

 男子生徒の目に、ひとつの感情が現れたのが分かった。燎に、自分の苦しさと恐怖がようやく伝わったという微かな安堵。

 それを見て燎は、今まででいちばん力をこめて腿を蹴った。

 男子生徒の目が驚愕と、真の恐怖のために見開かれ、瞳が激しく揺れた。

 信じられないのだろう。

 感情の繋がりが生まれたのかもしれない相手が、はっきりと悪意を持って暴力を振るうことが。

 燎は男子生徒にひとかけらの憐憫も抱かないまま、今度は折れた肋骨に軽く蹴りを入れる。

 焼き鏝でも押し当てられたように男子生徒は痛みに身を縮めた。涙と涎が歩道を濡らす。

 俺はこういう世界で生きているんだよ。

 倒れたままの二人の男子生徒から財布を奪い取り、適当に火をつけた煙草を二人の顔に押し付けて、燎は自宅とは反対側の追浜駅に向かって歩き出した。

 歩きながら夜空を見上げると、流れ星が赤い爪痕を残して流れ去った。

 燎は流れ星を鼻で笑って財布の金を数えはじめた。

 前方から自転車に乗った主婦が近づいてきた。

 こいつが通報するな。

 燎は踏切りを渡り、横道に入り、追浜の闇に消えた。

 繭はそれを赤い天使となって見下ろしていた。

 それが一九九四年の、沸騰した夏のはじまりだった。

 世界は確かに沸騰していた。

 

 

 


 

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