第1話 arrival time

 言葉に詰まりながら、香椎燎は半身を削がれた月を見ていた。

 毎夜、毎夜、身を削がれる月も痛みを感じているのかな。

 夜空にひとり浮く月を見て思う。

 俺はもう、あんまり痛みを感じない。

 燎は月から視線を落とし、鋭い視線を前方に向けた。

 街灯の下で、小綺麗な制服を着た男子高校生が談笑をしている。

 時刻は夜の九時。

 京浜急行の追浜駅からも田浦駅からも離れているから、人通りはほとんどない。国道十六号線は相変わらずの交通量でトラックや自家用車が行きかっているが、誰も夜の国道沿いで起きていることに関心は向けない。

 燎は三人の男子生徒をじっと見据えながら近づいていく。三人はまだ燎に気が付いていない。

 近づきながら燎は三人を観察する。

 自分たちのグループにいるようなタイプではない。金沢八景の海の近くにある私立高校の生徒だ。三人とも痩せて骨格もしっかりしているから、部活でスポーツはしているかもしれない。しかし、そんなことを燎は気にしない。これは身体能力の問題ではない。これは、凶暴になりきれるかどうかの問題だ。

 三人の顔が街灯の下ではっきり見えるほどに近づいた。

 傷一つない、日に焼けた顔。やはりスポーツをしている。しかし、それらしい道具は持っていない。

 柔道やレスリングをやっていると厄介だと思ったが、耳を観察してそれもないと思った。柔道やレスリングを本格的にやっていれば耳介血種という耳の変形が見られるが、それがない。あの私立高校には空手部もボクシング部もない。格闘技経験者ではないはずだ。

 燎の足取りは力強くなる。しかし、体の力は抜いていた。

 力んだら駄目だ。ただ素早く、打ち抜いて、壊す。

 速やかな人体の破壊だ。

 あと三メートルというところで、三人のうちのひとりが燎に気がついて視線を向けてきた。

 暗闇の中にいる燎の姿を見て、明らかに嘲りの表情を浮かべた。

 燎はよれよれのティーシャツに履き古したジーンズ、それに穴が開く寸前のアディダスだ。燎を眺める男子生徒の制服は白いシャツが眩しく、足元は真新しいプーマだった。

 ほかの二人も燎の存在に気がついて顔を向けてきた。

 訝し気な表情で燎を眺め、そして、真ん中の、いちばん長身の生徒が半笑いになって小さくつぶやいた。

「きったねー」

 最初に燎に気がついた生徒が、はっきりと敵意をにじませた声で言う。

「なんか用か」

 燎はその男子生徒を真っすぐに見つめながら、それでも問いかけには答えず、三人に向かって気だるげな口調で言った。

「持っている金を全部渡せ。札も小銭も全部だ」

 街灯が三人を、月明かりが燎を照らしていた。


 月から降り注ぐ蚕の羽を軽やかによけながら、木川繭は坂を下っていく。

 繭のまわりにはコバルト色のモルフォ蝶が飛び交い、地面では暗闇に紛れてカラフルなナミハンミョウやアカガネサルハムシ、クロホシタムシが這いまわっていた。

 それらの昆虫も繭はステップを踏むようによけて坂を下る。

 繭の頭の中ではビョークの『Like Someone In Love』が美しい旋律を奏でていた。

『最近のわたしはね、気がつけば外で星を眺めたり、ギターの音色を聴いたりしているの。まるで恋に落ちたひとみたいに』

 繭は坂道をどんどんと下っていく。

 自宅は遠くなり、目的地の湘南鷹取跨線橋が近づいてくる。

『最近のわたしはね、羽根がはえたようにふわふわと歩いていってね、物にぶつかったりしているの。まるで恋に落ちたひとみたいに』

 坂道がゆるやかになり、京浜急行の線路の向こうにある浜見台の住宅地が眺められた。あそこにはどんな世界が広がっているのだろうと、繭は夢想してしまう。

 できればすべての夜の街を歩き回って、その模様を眺めたい。

『あなたを見つめるたびにね、わたしはダメな手袋みたいになってね、それでね、恋に落ちたひとみたいな気持ちになるの』

 ビョークの優しい歌声がさらに繭の歩みを軽くする。

 湘南鷹取跨線橋の歩道に直結している階段のうえに繭は立った。

 そして、あたりを見渡す。跨線橋に向かう車道はスリップ防止のためなのか、赤い特殊な舗装がされている。その手前、階段の両隣は何もない草が生い茂った斜面で、そこには七色に輝くピンポン玉ほどの蛍が群れて飛び交っていた。

 跨線橋の両側には高いフェンスがそびえ、どこか痛々しい印象を与えた。そのしたに京浜急行の線路と、そして国道十六号線が走っているが、繭が立つ場所からだと国道十六号線を走り去る車がわずかに見えるだけだ。線路は暗闇の中に沈み込んでいる。

 何よりも目を引くのが跨線橋のさき、道路が大きくカーブしている先にそそり立つ巨大な白い壁だ。

 跨線橋から国道十六号線に下りる道路を造るさいに、崖の大部分を掘削したのだろう。そこをコンクリートで固めて出来上がった巨大な白い壁。そして、その壁と道路に取り囲まれるようにして建っているのが、繭が向かおうとしている場所だ。

 たぶん、繭以外のひとには用もなければ注目もしない、ただの廃墟だ。昔は地域のコミュニティセンターとして使われていたらしいが、繭の物心がついた頃にはすでに廃墟になり、忘れ去られた存在になっていた。

 誰ひとり顧みない、気にも留めない、忘れられた存在。

 そこに、繭は、見つけたのだ。

 この世界にほんの少しだけ流れ出して、そして、繭に夢を見させてくれる、あの玉虫色の霧が立ち込めている場所の入り口を。

 何かがそこからやってくる。

 素敵な匂いと音を漂わせて。

 繭はそこをうろこの家と呼んでいた。

 中学生の頃に出版された、繭が偏愛する作家、皆川博子の著書からとった名前だ。

 繭はその本の中に散りばめられた文字を目で追うだけで夢見心地になった。

『血汐浴びたる八橋桜・・・・』

『崖楼の珠』

『肥えた蚕のような宦官の指が、霧の底を指さした・・・・』

『水恋譜』

『男橋と女橋。女橋の袂の渡し舟。それだけが外界との通い路・・・・』

『孔雀の獄』

『百合の香りが、これほど淫蕩か・・・・』

 そして『朱鱗うろこの家』だ。 

 あの場所は、あの本の中に散りばめられた煌びやかな文字たちのような物と景色で満ちている。

 まるでベレゴネガセの路地の、三つの扉の向こうのように。

 繭は白い頬に虹色の蛍の光を受けながら階段を駆け下りた。

 遠くから少年の悲鳴が聞こえてきたのは、そのときだった。


「持っている金を全部渡せ。札も小銭も全部だ」

 香椎燎は三人の男子生徒を真っすぐに見すえ、気だるげに言った。

 燎にいちばん近いところに立つ、最初に燎の存在に気がついた男子生徒がわざとらしく大きく笑った。

「なに言ってんの、こいつ。頭おかしいのかよ。俺たち三人で、お前はひとりだぞ。それでカツアゲすんのかよ、アホかよ」

 言って威圧的に一歩踏み出した。

 燎はもう、間合いを計っている。

 近い。

 半歩、後ずさる。

 それを見て、笑った男子生徒が愉快そうに手を叩いた。

「なにこいつ。自分で絡んできてビビッてやんの。やっぱ頭おかしいんだな。格好も汚ねーし」

 燎は右端に立つ男子生徒の全身をつぶさに観察する。重心は左足だが、とくに意味や意図はない。拳を握ったり、それを平手で叩いたりしているが、握り方は出鱈目だ。肩をいからせているのも威圧の意味しかないだろう。

 喧嘩をまともにしかことがない。

 暴力を知らない。

 数秒で壊せる。

 隣の長身に目を移す。

 電信柱を背にして、燎からはいちばん離れたところに立っていた。

 長身の男子生徒は燎が声をかけてから、ずっと右手をポケットの中に突っ込んでいた。他には威圧的な態度をとることもなく、じっと燎のことを見めていた。

 嫌な感じがする。

 少なくとも軽率なことをして墓穴を掘るような雰囲気はなかった。

 やるなら最後だと燎は決めた。

 そのとなり、車道側のガードレールに右手をかけている、いちばん背が低い男子生徒を眺める。

 確か、燎が声をかけたとき、こいつは身をすくめて数歩後ろに退いた。しかし、友人が威圧的な態度をとりだしたら、にやにやしながら燎に近づいてきて、好奇の眼差しを向けながら体をゆすっている。

 気は弱いのに、周囲の空気に敏感で、すぐに調子に乗る。

 こいつは二番目だ。

 軽く壊せる。

 燎は長身の男子生徒を平然と見すえ、やや声を低くして言う。

「もう一度だけ言う。持っている金をすべて渡してどっかに行け。そうすれば助けてやる。これが最後だ」

「はぁ、なに言ってんだよ、なんでてめえに金を渡さなきゃなんねぇんだよ、おまえ酒飲んでんのか」

 背の低い男子生徒が無警戒に燎に近づきながら罵声をあげた。

 弱い犬が吠えている。

「おまえよう、俺らなめてんだろ。俺らさあ、中学のときからサッカーやってるから、けっこう鍛えてんだよ。蹴り殺しちゃうよ」

 そう言って右足を意味もなく蹴り上げる。

 確かに速度はある。

 しかし、それじゃあ人は壊れない。

 そして、燎ははっきりと決めた

 こいつらは、徹底的に壊す。サッカーのことを言ったのが運の尽きだ。

 両隣の友人が声を荒げても、長身は微動だにせず燎を見ていた。右手はポケットの中だ。そいつがようやく口を開いた。

「何を勘違いしているのか知らないけど、おまえこそどっかに消えろよ。金は渡せないし、後悔するのはおまえだぞ」

 無駄に大声も出さない。これから暴力が始まるかもしれないのに落ち着いている。

 その落ち着きのもとはなんだ。

 格闘技経験がある。

 喧嘩になれている。

 それとも・・・・。

 どれでもいい。

 素早く壊すだけだ。

 燎は右足で強く地面を蹴った。

 一気に間合いを詰める。

 驚いた右端の男子生徒はとっさに顔の前で両手を構えた。重心は左足に残ったまま。腰が浮いている。背中を意味もなく強張らせている。

 駄目だ、それじゃ。

 男子生徒に突っ込みながら、燎は右ひじを下から突き上げた。

 人体で一番硬いとも言われる肘は、男子生徒が構えた手の間に侵入し、顎と喉のあいだの軟らかい部分に突き刺さった。

 ダメージではなく、まずは痛みを。

 自分の体で急に爆発した激痛に、男子生徒は目を剥きだし、蛙が圧死したような声をあげた。

 壊すのは、これから。

 燎は両手で男子生徒の肩を軽く押した。

 二人のあいだに距離ができる。

 そこで素早く、右足で男子生徒の右足の内側を蹴った。

 蹴りはふくらはぎの上部に食い込み、筋肉と血管を切り裂いた。

 一瞬の隙を見せることなく燎はステップバックして軸足を切り替え、今度は左足で男子生徒の右足の外側を蹴った。

 最初の打撃で浮ついていた右足の脛あたりに突き刺さった蹴りは、男子生徒の足を異様な角度に曲げていた。

 折った。

 男子生徒が悲鳴をあげながら、変形した自分の右足を見下ろした。

 その顔面にフックの軌道で右こぶしを叩きこむ。

 鼻がつぶれた感触があった。

 男子生徒はその場に座り込んで泣き出した。

 その姿には見向きもせず、燎は軽やかに体を反転させた。

 車道側にいた背の低い男子生徒は燎に背中を向けていた。

 逃げるのか。

 しかし遅い。

 燎は猛然と駆け抜け、逃げようとする背中に飛びかかった。

 燎の膝が背中に突き刺さる。

 膝が沈みこむ感触があった。

 何本か肋骨が折れたかもしれない。

 逃げようとしていた男子生徒は声一つ発せず、道路にうつぶせに倒れた。

 その横を車が何台も走り抜けるが、誰も停車しようとはしない。

 弱い、弱すぎる。

 これじゃあ、何もたぎらない。

 あそこには到達しない。

 あの世界には。

 燎はうつぶせに倒れた男子生徒からやや離れ、そして長身に目を向けた。

 電信柱に背中を預けた長身の男子生徒の右手はポケットから出ていた。

 そこには冷たい光を放つバタフライナイフが握られていた。

「後悔するって言ったのに」

 そう言って燎に突進してきた。

 

 

 

 


 

 


 


 


 

 

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