ボーイズ・ドント・クライ
カタオカアツシ
世界の終わりと夜明け前
第0話 1994/107-44-8/SL9
世界が終わるまであと五年のその夏、世界は沸騰していた。
一九九四年。
熱が燃え狂い、大地は笑うように割れ、煮えたぎった雫が落とされた。
ヨーロッパでは南部を中心に高温になり、クロアチアのスプリト、アルジェリア北部では年平均よりも三度以上の高温となって人々を熱した。
一方、ヨーロッパ北部や地中海沿岸では雨が少なく大気が乾燥し、各地で山火事が発生した。アメリカ北部も雨が少なく、乾ききった森林が燃え上がり、大規模な山火事が発生。人々は業火に焼かれた。英国の作家ピーター・ストラウブと親交があったミシガン州サギノー在住の怪奇小説家、ジョナサン・マーティンがルイストン近郊で起きた森林火災に巻き込まれて死亡したのは六月のことだった。マーティンは『八月の人狼』『黄昏時のブルーローズ』『水底の乙女』など、ウォールン・フォールズ三部作などで知られ、『ゴースト・ストーリー』や『ココ』、スティーヴン・キングとの共作『タリスマン』なとで知られるストラウブは高く評価していて、彼の死を二十世紀最大の損失と嘆いた。
六月から七月にかけて開催されたサッカーワールドカップアメリカ大会は、そんな猛暑の炎天下、しかもヨーロッパ諸国での夜のテレビ放送にあわせて昼間に試合が行われたことから、選手たちは強烈な日差しと熱気と戦わなければならなかった。
皮肉にもその暑さに斃れたのは、比較的涼しいプレー環境に慣れていたヨーロッパの強豪だった。
前回のイタリア大会の覇者ドイツは優勝メンバーを多く残し、さらに東西ドイツ統一で東ドイツのマティアス・ザマーなども加わり、スーパースター軍団でアメリカ大会に挑んだが、ベテラン勢が多く、また彼らの主戦場であるセリエA、ブンデスリーガ、プレミアリーグはシーズンを通して涼しいため、炎天下でのプレーは彼らを追い詰めた。
明らかに格下の韓国とのグループリーグ戦では三点を先取するも後半に足が止まり、二点を返された。そして、決勝トーナメントではストイチコフが王様として君臨するブルガリアに逆転負けを喫した。ブルガリアの代表メンバーは比較的、国内リーグでプレーする選手が多く、ブルガリアは四季の寒暖差が大きく暑さの中でのプレーにも慣れていた。そんなタフな兵士たちを走らせ、王様のストイチコフが必殺の一撃を決める。見事なジャイアント・キリングだった。
優勝候補のイタリアも、気温が高い東部を中心に戦い、満身創痍になった。大会前に期待されたセリエA得点王のジュゼッペ・シニョーリ、ナポリの小柄な魔法使いジャンフランコ・ゾラは精彩を欠き、もともとの膝の怪我と肉離れに苦しみながらも奇跡を起こし続けた天性のファンタジスタ、ロベルト・バッジョは決勝でPKを外した。彼らの肉体に宿っていた魔法は炎天下で焼き切れた。
この猛暑の大会を制したのは暑さの中での戦いを熟知した南米の王国だった。
日本でも暑さが沸騰していた。
梅雨は七月十三日に早々に明け、それから日本は記録的な猛暑に襲われた。
大分県日田市では二十二日間連続で猛暑日を記録。熊本県熊本市の年間猛暑日は四十一日になった。日最高気温が三十五度以上になった都市は京都市、佐賀市、多治見市、名古屋市など全国各地で二十を超えた。七月十六日、宮崎県西米良村で三十八・九度を観測。七月十五日には岐阜市で三十九度、多治見市で三十八・七度、徳島市で三十八・四度を観測した。翌日の十六日には佐賀市で三十九・六度、福岡県黒木市で三十九・二度、大阪市でも三十八度を観測した。
八月に入ると東京都千代田区でも三十九・一度を観測。コンクリートとアスファルトに覆われた帝都は灼熱と化した。
八月七日には三十五度以上の観測地点は二九四点となり、札幌市、津別町、秩父市、岡山市で観測史上最高を記録。翌八月八日は近畿地方で観測史上空前の猛暑となり、和歌山県かつらぎ町では四十度を超え、大阪市でも観測史上最高を記録した。
日本が沸騰していた。
熱せられ、燃え上がり、燠火も冷めやらず、人々は茹で上がり、確かに狂っていた。
四月七日、ラジオ放送と日常での些細なささくれ、そして長い歴史の怨嗟に満ちた蓄積が発端となり、人々はマチェーテとアサルトライフルで隣人を殺しに街に出た。それから約百日間でおよそ百万人が虐殺された。
ルワンダ大虐殺。
一日で一万人が殺された。一時間で四百人以上が殺されたことになる。隣人が隣人をマチェーテで切り刻み、子を父のまえで殺し、母を娘のまえで犯し、幼児を焼き、妊婦の腹を裂いて胎児を父親に抱かせ、地方議員は虐殺の報酬を約束し、ラジオは延々と憎しみと虐殺を煽り続けた。地上の地獄だった。
四月二十三日、井の頭恩賜公園で切断された男性の死体が七か所のゴミ箱から発見された。死体は関節や臓器などを無視して二十センチ間隔で切断されており、血液は完全に抜き取られていた。切断された死体は黒と透明の二種類のビニール袋にくるまれ、漁師らが使う特殊な結び目で固く結ばれていた。発見された死体は二十七個にも及んだが、頭部や胴体の大部分は発見されなかった。井の頭公園バラバラ殺人事件だ。事件の背景には禍々しさときな臭さが漂っていると噂された。
六月二十七日、オウム真理教が松本市北深志でサリンを撒いた。八人が死亡、重軽傷者は六百人を超えた。化学兵器クラスの毒ガスが一般市民に対して使用された世界初の事例だった。さらに、警察の杜撰な捜査や、それを無批判に報じたマスコミが被害者を公然と犯人として報道し、冤罪未遂事件を引き起こした。教団の狂気が人々を殺し、集団の狂気が無辜の市民を殺しかけた。
空ではシューメーカー・レヴィ第九彗星分裂が七月十六日から七月二十二日にかけて相次いで木星の大気上層に衝突した。
衝突自体は木星の裏側で起きたために地球からは観測できなかったが、衝突時の閃光が衛星ガニメデに反射したものを観測、また湧き上がるきのこ雲も観測された。これは史上初の、地球大気圏外での物体衝突を観測した瞬間だった。
宇宙も沸騰していたのだ。
そんな世界を香椎燎は血の膜の向こうに見ていた。
燎は怒号と物が壊される音、そして母親の獣じみた声と腐臭に囲まれていた。
丘のうえの家は広いがゴミで溢れ、見晴らしのよさはそこに行くまでの不便さに搔き消された。隣人は老人か失業者の酔っぱらいで燎には無関心であり、ときには理由のない敵意を向けられた。
家の電話を鳴らすのは借金取りか母親の男か、カンパを強要する先輩ばかりだった。数少ない友人は電話で連絡を取らず、いつもの場所に自然と集まって夜の街に繰り出した。燎も友人たちも家庭の中で電話をすることすら許されていなかった。
夜の街だけが、すべてから弾き出された燎たちの、狭くて濁った、それでも生きていける水槽だった。
水は濁っている。もしかしたら死骸が浮いているかもしれない。その水を吸い続けたら病気になるか、さらに悪いことにもなりかねない。
しかし、燎たちに選択肢はなかった。
そこにいるしかなかった。
そこで生き抜くしかなかった。
だから、生きる術を自然と身に着けた。
暴力だ。
この狭い水槽では言葉は通じない。
誰もが自分にしか通じない、不明瞭で聞き苦しい、発狂寸前の言語しか持ち合わせていなかった。
自分の意思を貫くには暴力で解決するしかない。自分の身を守るには相手を破壊するしかない。たとえ誰かが助けてくださいと言っていても、この水槽の中では誰にもそれは届かない。
燎の助けてくださいも、誰にも届かなかったのだから。
燎は沸騰した夏の夜、街に向かっていた。
ポケットには吸いさしのセブンスターと小銭だけ。
去年の年末に買ったアディダスのスニーカーの靴底にはもうすぐ穴が開く。
左目には血合いのような痣がある。数日前、酔った母親の男に殴られて出来た。母親と男がセックスをしているときに帰宅した、というだけで殴られた痣だ。
燎は薄い生地のシャツをはためかせて街を往く。
夜空に星はあるが目は向けない。
国道十六号線はいまだにトラックが轟音で走り抜ける。
久里浜に向かう京浜急行の快速が金属の悲鳴をあげながらトンネルに吸い込まれた。
いつも生傷が残っている拳を燎は握りしめる。
遠くの街灯のしたで、小綺麗な制服を着た同年代の男子たちが談笑しているのが見えた。
自然とポケットに手を突っ込んで、小銭を弄んでいた。
まったく違う綺麗な水槽でのびのびと泳いでいる男子たち。
燎はその夜、はじめて夜空を見上げて星を眺めた。
ああ、世界は・・・・。
木川繭は嫌いな名前を自室に残して家を出た。
両親が寝たのはしっかりと確認している。
ポケットには山尾悠子の『夢の棲む街』が押し込まれている。
家を出るとき、玄関の姿見で繭は自分の姿を眺めた。
長い髪、白い肌、細い手足、白いブラウスとぴったりと下半身に張りついたジーンズ。たすき掛けにした小さなポーチ。
すっとある箇所から視線を外す。
そして、ぼんやりと全身を眺める。
暗闇の中の繭は、繭が望む繭だった。
小さく笑って街に出る。
丘のうえの家。
遠くに町の灯りが見えた。
古城の塔のように聳えているのは、出来たばかりの八景島シーパラダイスのフリーフォールだ。その向こうには星砂のように京葉工業地帯の夜光が煌めている。
家から離れ、東京湾を見下ろす坂を下りながら、繭はポーチからCDウォークマンを取り出してイヤホンを耳にさした。
電源を入れると、イヤホンから控え目な電子音が聞こえてきた。
ウォークマンにはビョークの『Debut』が入っている。
繭は遠く、東京湾とそのまわりの夜景を眺めた。
歩くのをやめて、左手で自分の体を撫でていく。
硬い骨盤が張り出した下半身。
腹部にはほとんど余分な脂肪がなく、筋肉が触れた。
肋骨は浮き出て、胸は薄い。
それでも、繭は、夜の中にいる自分が好きだった。
暗闇の中、月光に照らされた自分は、本当の自分に少しだけ近い。
繭はウォークマンの再生ボタンを押した。ウォークマンの中でCDが回転する音が聞こえてくる。そのあとに、脳内に響き渡るドラム音。そして聞こえるビョークの、魔法がかかったような歌声。
繭はすぐに、まるで自分が歌っているように口を動かし、軽やかに坂道を下りだす。
身が軽くなる。
心が軽くなる。
世界が光速で宇宙の果てまで広がっていく。
繭ははるか遠く、衛星ガニメデを照らした閃光を思い浮かべる。
無音の暗黒で立ち上ったきのこ雲をすぐ近くに感じる。
光の粒子と木星の破片が無限に拡散していく様を、自身の中に感じ取る。
繭は踊りながら夜を往く。
あり触れた住宅街のあちこちに、極楽鳥やケツァール、モルフォ蝶が飛び交って、極彩色を闇夜に振りまいていた。
あの家の軒下にはアオマルメヤモリがコバルトのような輝きを放っている。電信柱に張りついているのは真っ赤なヤドクガエルだ。まるで花びらのように舞っているのは猛毒のアオミノウミウシ。それは青い天使のようだった。
東京湾の上空には黄色と白銀のコントラストが美しいシロナガスクジラの親子が優雅に浮かんでいる。
きっと夜が更ければ七色の潮を噴き上げるのだろう。
まだ体色の黄色が薄い子供のシロナガスクジラが器用にくるりと前転をした。
繭も、つま先立ちになって、坂道の途中でくるりと回り、そして空を見上げた。
幾億万の星々が燃えていた。
その数以上の物語を繭は想像し、その欠片を全身に浴びた。
繭の瞳は夜空よりも複雑な色を湛えていた。
ビョークの歌声の奥で、夜空を見上げながら、繭は絶叫した。
ああ、世界はなんて・・・・。
世界はなんて。
美しい・・・・。
醜いんだろう。
こうして、世界の終わりと夜明け前は始まった。
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