15話 香坂賢人
改めて香坂賢人の実力を再確認する小鳥遊美優。あり得ないと口をパクパクさせる板井目未留。そして、何かを察した観戦者達は沈黙を告げながら二人の戦いを傍観する。
そんな中で、ふと一人の観戦者が声を上げた。
「何者なんだ、あの子……」
その言葉に呼応する者はいない。既に大会は終わりを迎えつつあり、ほとんどの選手や並みの観戦者達はかなり前にこの会場を後にしている。
こんな時間まで残っているのは、最後まで見届けようとする小鳥遊の関係者や何かを察した高段者だけだ。
「あんな強い選手がいるなんて、オレ全然知らなかったわ」
有段である一人の観戦者がそんな声を漏らすと、隣にいた高段者が目を瞑って指摘した。
「バカ、気づかないのか?」
「え?」
「はぁ……。あの指し手、あの手付き、そして縦横無尽に支配するあの指し回し。……どこからどうみても違和感しかなかった」
溜め息交じりに呟く高段の観戦者は、何かに怯えるように震える腕を胸に組むことで悟られないように平常を保つ。そして再び開眼したその視線は二人のうちのどちらかに向けられ、再び溜め息をつく。
そして放った。──真実の一言を。
「あの子……いや、アイツは──香坂賢人本人だ」
「はっ……!?」
「なぁ、そうなんだろう? 虎飛?」
そう言って、高段の観戦者は虎飛の方へ視線を飛ばす。
「……」
対する虎飛は静かに目を閉じて沈黙した。
「そ、そんなことあるわけねぇじゃねぇか! じゃあなにか? 香坂賢人は女の子に生まれ変わったってのか?」
「そうだな」
「そうだなって……んなわけあるかよ! 非科学的だろ!」
「非科学かどうかなんて関係ない。俺は長年アイツの指し手を見てきたから分かるんだ。あの戦い方は誰かに真似できるようなものじゃない。新しい戦術を完全に自分のものにしている指し方、唯一を極め続けた男の指し方だ。あまりにも似すぎているんだよ。……いや、そもそも似させようとなんかしていない。ごく自然体で戦っているはずなのに香坂賢人本人に見えるんだ。これは弟子とか、親族とか、そういう枠を超えている」
その高段の観戦者は、かつてアマチュア界最強と呼ばれた香坂賢人と幾度も戦ってきた。そして、そんな香坂賢人に
だからこそ分かる。目の前の存在は、そこに座っている少女は正真正銘──かつての王者であると。
「じゃあ、賢乃ちゃんの正体って……」
「……」
「……嘘だろ……今日一驚いたぞ……」
そうして有段の観戦者は振り返る。そこには自分と同じく驚いている者のほかに、ある程度察しがついていた者達も黙って視線を下げていた。
勝てるわけがなかった。敵うわけがなかった。
今日の大会で賢乃と戦っていた何人かの選手は冷や汗をかきながら鼻で笑う。それはまるで自分を虚仮にするかのような笑いだ。相手が女の子だからと実力を見誤り、勝てるかもなんて息巻いた姿勢を取ってしまった自分への愚かさに笑ってしまう。
振り返ればなんてことはない、点と点が繋がる簡単な話だ。
そもそも『香坂流』は香坂賢人本人しか扱えない。だというのに目の前の少女、香坂賢乃はそんな『香坂流』を本人以上に扱えていた。
だとすれば、導かれる結論は自ずと香坂賢人になるはずなのだ。香坂賢乃の正体は香坂賢人であると、気付けるはずなのだ。
だというのに、自分達は常識に囚われてその結論へとたどり着けなかった。
人の性格が千差万別であるように、人の戦術もまた千差万別である。対局者の戦い方を見ることなく、相手の性別や人格などで勝手な決めつけを行った結果が自らの印にバツを付けた。相手が小さい女の子だからと驕り侮った結果である。
「何故だッ!?」
板井目は席を立って小鳥遊の視界に入るくらい距離を詰める。その顔は焦りと怒りに満ちていた。
「……」
対して小鳥遊は盤面から目を離さない。対面にいる高段の観戦者もまた、静かに目を閉じている。
「小鳥遊美優……! 貴様手を抜いているのか!?」
「……」
「小鳥遊美優!!」
「代行……! それ以上はいけません!」
対局者に話しかける行為は厳罰に値するルール違反。それを分かっている板井目の付き人は慌てて板井目の手を引く。
「け、県の三冠王が地区大会で負けるだと……? そんなバカな、そんなバカなことがあっていいわけないだろう! きっ君は棋界を担う次代の英雄となるべき存在なのだぞ……! こんな名も知れぬ相手に負ける事などあっていいはずがないッ!!」
声を荒げる板井目に、審判員がいい加減にしろと睨みを利かせる。そして、それまで板井目の言葉にずっと黙り込んでいた小鳥遊がゆっくりと口を開くと──。
「……なら、アンタがここから逆転してみなさいよ……」
そう言って、縋るような視線を向けてきた。
「そんな……」
その言葉に、板井目はただただ呆然自失としてしまう。
「私の野望が……こんなところで潰えるのか……?」
崩れるように膝をつく板井目。そして、その横で付き人もガックリと肩を落としながら座り込む。
「……」
そんな彼らの姿を目の当たりにしながら、小鳥遊は目の前の少女に視線を移す。
「……なんで、アンタはそんなに強いのよ?」
小鳥遊の問いかけに、賢乃は信念を持った目で答えた。
「──『全部』をやったからだ」
「全部……?」
首をかしげる小鳥遊に、賢乃は自らの綺麗な手をまるで汚物でも見るような目で見つめた。
「自分にある才能を限界まで極めた。自分にある弱点を限界まで切り落とした。自分に出来る努力を限界までし続けた。自分で身につけられる知識を限界まで学んだ。自分に為せる戦い方を限界まで突き詰めた」
まるで何かを思い出すかのように賢乃は目を閉じる。それは悲しみか、怒りか、あるいは絶望か。その真意は分からない。しかし、彼女が歩んできた道のりがとてもではないが容易でなかったことは小鳥遊にも想像できた。
賢乃が自分の手に向ける汚物を見るような目は、それこそ本当の自分を見ている目だった。総じてこれまでの全てを成し遂げてきたその手には、数えきれないほどの傷や血の滲むような跡が込められている。賢乃はそれを見て毎日努力をし続けてきた。
「そうして自分に出来ることを『全部』やったから、今わたしはここに
そう言って賢乃は盤面に駒を投じる。それは、先程までの苦しみを感じさせるような指し手ではない。まるで介錯でもするかのような一寸たりとも迷わない手筋。彼女が振り下ろす剣戟の一閃は、小鳥遊の首元へとあてがわれた。
「王手だ、小鳥遊美優。いい加減に終わらせよう」
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