12話 対峙と最後の戦いへ向けて

 

 準決勝を制した賢乃は、決勝までの僅かな休憩時間で休息を取るべく、トイレに行っていた。


 洗面器から流れる水の音、鏡に映る美少女。賢乃は静かに顔をあげて鏡を凝視する。そういえばTSに気づいた時も、こうして洗面器の鏡を覗いていた気がする。


 賢乃は鏡に映る自分の表情から目を逸らした。


「……」


 そこに映っていた自分に何を思ったのか、賢乃はふと濡れた手で顔を覆ってしまう。そして、頬から落ちていく雫を鑑越しに覗き込んでいた。


「……ここ女子トイレよ」


 突然、背後から声が聞こえた。しかもその声は聞き覚えのある声だった。


 賢乃の眉がピクリとヒクつく。決して許してはならない存在を前に、それまで穏やかだった感情が激情へと飲み込まれてしまいそうになる。


 賢乃はゆっくりと振り返り、自らに仮面を被せるように少女らしい声色を作って、声を掛けてきた女性に困り顔を浮かべた。


「……えーと。わたし、女ですけど」

「黙りなさい、香坂賢人。下手な演技は私には通用しないわ」

「虎飛と喋っていたところを盗み聞きしていただけだろ」

「……っ!」


 一瞬、賢乃の表情が切り替わった。全てを見通すその表情に、その女性は僅かに後ずさりしてしまう。看破したことを告げたつもりだったのに、賢乃はまるでそれが想定の範囲内とでも思っているかのような返事をかえした。


 それでも、賢乃がそういう人物であることを知っていた女性はその動揺を一瞬だけにとどめ、続けざまに問う。


「……なんで、そんな恰好になってるのよ?」

「さぁ? 俺も朝起きたらこんな姿になっていてびっくりだ。おかげで香坂賢人はもうこの世にはいなくなった、残念だなぁ」

「とぼけないでっ!」


 トイレの中に怒号が響く。


「……アンタ、本当は全部気づいてるんでしょ」

「……何の話だ?」

「前に、自分がこれからすることのためには、香坂賢人という存在が邪魔だって言ってたじゃない。自分に何が起きたのか、どうしてそんな姿になってるのか、本当は全部知ってるんじゃないの?」


 躊躇いもなく核心に迫ろうとするその女性に、賢乃は何も答えず洗面器の蛇口を捻って水を止める。


「……まさか、は冗談じゃなかったの? 本気で棋界を転覆させるつもり?」

「何を言ってるのかよくわかりません。わたしはただ『香坂流』を使ってこの大会を優勝して、いつかは日本一を取りたいと思っているだけです」


 賢乃は白を切って女性の言葉を真に受け止めない。それをすることは相手にとって都合が悪すぎる。勝ちの決まった言い合いに乗せられるのは癪だ。そして、それが自分の感情の引き金になっていることを知っている。


 それでもその女性は、賢乃に向かって大口を叩いた。


「……そう。なら、私がアンタを止めるわ」

「止める……? わたしを悪者か何かだと勘違いしてませんか?」

「悪者でしょ……! アンタがやろうとしてることは間違っ──」

「え? それ本気で言ってます?」


 刹那、ここまで人畜無害な少女を装っていた賢乃から"殺意"とも呼べる声色が漏れた。そんな殺意を含む怒りの視線に、女性は紡ごうとしていた言葉を引っ込める。


「い、いや……」


 引き金を引いた。その女性は、賢乃に対してだけは言ってはならないセリフを告げて賢乃の引き金を引いてしまった。


 目を見開いた賢乃が女性に向けて赤い眼光を飛ばす。


 その女性が賢乃の前に存在しているだけで、賢乃の視界に入っているだけで、既に地雷はいくつも踏み抜かれていた。女性が紡ぐ一言一言が全て賢乃の感情の引き金を引きまくっていた。それでも、なんとか自制をしようと賢乃は平静を装っていた。だが、彼女が賢乃に対して"悪"と告げたことで賢乃の自制は決壊した。


 今にも人を殺してしまいそうなほどの殺気を向ける賢乃は、女性に向かって距離を詰める。


「わたしの行動を否定するんですか? あなたが? 暴力と殺人でしか会話できない銀譱ぎんぜんの回し者が、正道を歩んでいるわたしを否定する気ですか?」

「ちが、そ、それは、ちがくて……!」

「一体何様のつもりなんですか? ふざけているんですか? よくわたしが香坂賢人であると知りながら声を掛けてこれましたよね。……殺されたいんですか?」


 静かに一定のトーンで逆上する賢乃に、その女性は口をぱくぱくさせながらなんとか言い訳を口にだそうとする。しかし、それを許さない賢乃の言葉責めに次第に足を後退させていく。


 やがて眼の色を変えた賢乃は、自分の中に眠る香坂賢人としての言葉を引きずり出して女性に告げた。


「図に乗るなよ小鳥遊たかなし 美優みゆ。高々県代表の三冠王が、元日本一である俺に勝つだと? あまり思い上がるなよ」

「そ、そうじゃないの! 聞いて!」

「断る。お前達の謝罪など皆式かいしき聞きたくもないし、聞くこともない。黙って対局の席について、俺に潰されろ」

「……み、みんな悪いと思ってるの! アンタに申し訳が立たないって思ってる!」

「お前らが謝る相手はもう死んだんだよ。邪魔者が消えて良かったな?」


 小鳥遊の話を聞こうともしない賢乃は、キレかかった瞳を小鳥遊に向けたまま一切の躊躇なく罵詈雑言を飛ばす。


 小鳥遊美優は、銀譱委員会の傘下である銀譱道場に通う生徒の一人だった。それも今では指導者の立ち位置につくほどの優秀な将棋指し。しかも、現役でタイトルを冠する3つの県大会を優勝している本物の実力者だった。


 しかし、賢乃にとってはそんなのどうでもいいことである。ただ目の前の女が銀譱委員会に関わりがある時点で、賢乃の逆鱗に触れているようなものだった。


 それでも何とか堪えていた賢乃に対し、銀譱委員会に関わりのある者から『悪者』『間違っている』なんて言葉を告げられた日には、平常心でいることなどできるわけがない。


 ──どの口が、どの立場が、そんな正論をかざせるというのか。


「どけ」


 小鳥遊の寸前まで距離を詰めた賢乃は、今にも射殺しそうな瞳を向けてそう言った。


「まって! 話を聞いてほしいの! 私は──」

「玖水棋士竜人を殺され、『香坂流』を地に貶められ、日本一の称号すら退路封鎖に使われた。そんな経験を経た人間を相手に、本気で会話ができると思ってるのか? 面白い冗談だな。お前達がどう思おうと勝手だが、俺は──」

「私、脱退したの──!!」


 小鳥遊がその一言を放った瞬間、賢乃を纏っていた怒りのオーラが薄らいだ。


「あの後、アンタが日本一になってから私の方にも矛先が向いて……その、何回も戦ったことがあるから、もしかしたら『香坂流』について何か知ってるんじゃないかって問い詰められて……。それで適当にはぐらかしてたら、周りからの風当たりが強くなってきたたのよ。だから先月脱退したの……」

「……それで?」

「私がアンタにしたことを許して欲しいとは言わない。でも、アンタの目的が復讐で、棋界をめちゃくちゃにすることだっていうなら、私はアンタを止めなくちゃならない……! 昔馴染みのライバルとして、そんな非道な人生を歩んでほしくないの……!」


 小鳥遊の真剣な言葉に、賢乃は大きくため息をついて落ち着きを取り戻す。


「人の気も知らないでよくそんなことが言えるな」

「それは本当に悪いと思ってる! 玖水棋士さんの時に私が傍観してたのは事実だし、アンタの戦術が標的にされていた時も見て見ぬふりをしてた……。だから次は間違えない! 次はアンタの助けになりたいのよ……!」


 真剣な表情で語る小鳥遊に、賢乃は彼女が伝えたかった真意をようやく受け取る。そしてその言葉が、決して紛い物ではないことが今の賢乃には理解出来た。


 そうか、自分の行動はやはりそう見えていたのか。


 賢乃はようやく自分を客観視して、自らが起こした行動の数々を冷静に見つめて分析する。師匠を殺された弟子が突然の覚醒を見せて全国優勝。怒涛の勢いで相手を薙ぎ倒し、あまつさえ『香坂流』という独自の戦術で他を翻弄してきた。


 周りからみれば玖水棋士の意思を継いで棋界に復讐しようとする弟子に見えたのだろう。


 しかし、それは大きな間違いだ。賢乃がやろうとしていることは昔から何も変わってなどいない。夢のために奔走し、目標のために自分を磨く。創り上げるは正確無比の"戦略"ただひとつ。


 賢乃の行動が変わっているのは、あくまでも"対策"である。降りかかる火の粉を払うための予防策。今後、銀譱委員会が何かちょっかいをかけてくることは明白。だからそのための対策を賢乃は事前にいくつか仕込んであるだけだった。


 決して棋界を転覆させようなんて考えは持っていない。せいぜい今の賢乃に出来ることと言えば、玖水棋士竜人を侮った相手に対する意趣返し程度だ。それを将棋という名の盤上で叩き潰すことだけだ。


 ──だが、今この場でその事実を告げてしまえば面白くない。それこそ本当の勝利が手に入らない。


「……そうか、突然怒って悪かった」

「賢人……!」


 次の瞬間、賢乃は小鳥遊の腕を払いのけると、少しばかり悪役の面をして小鳥遊を見上げた。


「そんなんで俺が止まると思ったか?」

「え……?」


 動揺する小鳥遊に対し、賢乃はトイレの扉を開け、そして締め際に一言放った。


「決勝進出おめでとう。小鳥遊美優。──そして、準優勝おめでとう」


 そう告げて去っていく賢乃の背中を、小鳥遊はただ見つめることしかできなかった。

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