10話 生まれ変わり

 

 午後を過ぎてから更に白熱した戦いを見せる本大会では、既に下位クラスの優勝者が決まりつつあった。


 会場に飾られた金色のトロフィーが、夕焼けに照らされてキラキラと光沢を放つ。BクラスやCクラスとは格が違うAクラスのトロフィー。その栄誉は誰の手に渡るのか、既に観戦者の中では予想が付きつつあった。


 そして同時刻。Bクラス準優勝という惜しい結果で終わった虎飛は、観戦席に戻って賢乃の対局を静かに見守っていた。


「おー! 虎飛じゃねーか! 久しぶりだなぁ」

「おう」


 自分と同じ常連の選手に声をかけられた虎飛は、並ぶように隣の椅子に座る。そして軽く飲み物を含みながら周りの様子を一瞥する。


 ──みな、動揺していた。


「なぁ虎飛、あの子……賢乃ちゃんって一体何者なんだ……?」


 当然の疑問が観戦者から飛んでくる。これまでは香坂賢人の妹ということ以外何も分からない状態だったが、香坂賢乃を大会まで連れてきた虎飛であれば何かしらの事情を知っているかもしれない。


 みなが疑問に思っていたことを口にした観戦者は、周りで聞き耳を立てていた者達の視線を一斉に集めた。しかし、その質問は虎飛からしてみれば答えにくいものである。


「なんつったらいいかなぁ……まぁ、俺も詳しいことは分かんねぇんだわ」

「なんだよそれ…」


 まさかTSしているなどと口にできるはずもなく、かといって賢乃の知らない所で本人の設定を勝手に作り上げるわけにもいかず。虎飛は適当にはぐらかすくらいしかすることができなかった。


「あの子が使ってるのって『香坂流』だよな? なんで過去の遺物が今でも通用してるんだ?」

「さぁ……俺はBクラスだから、Aクラスの戦いについてはさっぱり」


 BクラスとAクラスでは天と地ほどの差がある。それはBクラスの優勝者が次の大会でAクラスに挑んだところ、一勝もできずに完敗して帰ることも珍しくないほどの差である。


 そんなAクラスの、それも準決勝という最上位の場で戦い続けている賢乃の思考など、この場にいる者達では理解できなくて当然だ。


 ……だが、虎飛はひとつだけ知っていた。


「……まぁ、当然の帰結ではあるのかもな」

「当然の……何?」

「なんでもねぇ」


 虎飛は賢乃の方へと視線を向け、その華奢な背中に宿る忘我級の心情に冷や汗を浮かべる。それはこの場でただ一人、虎飛だけが知り得る恐怖だった。


 今の賢乃に渦巻いている感情は、人の裁量で測れるレベルのものではない。人の人智で届き得る心情ではない。何せ、自分の戦術が日本中の人達によって食い尽くされたのだ。何か罪を犯したわけでもないのに、多くの者達に露見し消費されたのだ。


 ネットでは「時代遅れの戦術」「初見殺しなだけ」「流用もできないゴミ戦法」など好き勝手言われ続け、それを視界に入れながら香坂賢人は文句のひとつも口にせず淡々と研究に励んでいた。


 そこからは本当に孤独な戦いの始まりだった。


 オリジナルの戦術であるが故に、誰かに助けを求めることもできず。また自分のための戦術であるが故に、誰かと対局して知恵を与えるわけにもいかなかった。


 求められる解答は唯一絶対である必要性があり、それを導き出すまでの研究の手腕が永遠と問われ続ける。どんなに苦しくても向き合い続け、どんなに言い訳をしたくてもその言葉を飲み込み続け、どんなにやめたくても前へと進み続けた。


 やがて周りから香坂賢人の名が忘れ去られていく中、『香坂流』の対策として出版された本のレビュー欄には「そもそも香坂賢人は引退したんだから買う必要ないだろ」……と、勝手に将棋を引退したことにされ、賢人はその界隈から存在を抹消されていた。


 胸に溜まるドス黒い感情。誰かに当たりたいという鬱憤。もう逃げ出したいという絶望。これらを無理やり飲み込みながら香坂賢人は研究を続けていた。続けるしかなかった。


 ある程度『新・香坂流』が出来上がったとき、今すぐにでも誰かに使いたい、見せびらかしたいという気持ちがあった。でもそれをしてしまえばこれまでの努力が無駄になる。それだけは絶対に避けなければならない。


 だから、ずっと、ずっと耐え続けた。


 あと1万種類、あと5000種類、あと1000種類──。


 膨大な分岐を頭に詰め込み、大学試験でも受けるかのように毎日暗記テストを行い、忘れても思い出せるように痛みと共に体に叩き込んだ。そうして香坂賢人は、香坂賢乃は大会当日を迎えたのだ。


 ──容赦など、あるはずがない。


 全ての方法を使って、ありとあらゆる選択肢を駆使して、目の前の敵を見下ろしながら叩き潰す。一切の容赦なく、一切の手加減なく、こちらは常に余裕綽々の態度をとって圧勝の形を作り出す。


 散々人をコケにしておいて、散々好き勝手に貶しておいて、ただの敗北で許されるはずがない。許されるわけがない。


 香坂賢人はもういない。だからなんだ? TSしたから本人じゃない。だからなんだ?


 この気持ちは変わっていない。この感情は払拭なんかできていない。香坂賢人がその手を伸ばせないというのなら、香坂賢乃が代行して全てを引き受けよう。全てを打ち滅ぼす鉄槌を下そう。


 ──『香坂流』が終わったと思っている全ての者達に、絶望を与えてやる。


「……やっぱイカれてるよ、お前は」


 対局している賢乃に向けて、虎飛はそう呟いた。


 あれだけのことがありながら、あれだけの苦痛に身を焼かれながら、それでも彼女が正気を保てていたのは、ある意味既に狂気に染まっていたからなのかもしれない。


 賢乃の性質は"善"である。人助けも進んで行い、困っている人がいたら手を貸す。そんな優しい人格者だ。……しかし、それはやられてもやり返さない聖人のことではない。どんなことをされても謙虚さを保ち続ける温厚な性格を持つ人のことではない。


 大会が始まる前、会場へと向かっている時に賢乃は虎飛へと一言告げた。


「俺はもう一度全国取るよ。それでようやく気が晴れる」


 そう、賢乃は本気で二度目の全国制覇を考えていた。その渇望が満たされるのは全てを打ち倒したときだけだと告げていた。それはつまり、賢乃のたまりにたまった鬱憤が放出されるのは、全国を制覇するまで続くということでもある。


「……あきた、だと? このボクに、お、お前如きが飽きただと……ッ!?」


 準決勝、賢乃と対局していた馬上火玖帝は激昂しながら頭を抱える。


 将棋は常に冷静な思考と正しい先読みが求められる。それなのに、相手の挑発に乗ってしまうようでは向こうの意のまま、自らの手が透けて見えてしまう。


 玖帝は天才であるが故に大会の経験が浅く、賢乃のような圧倒的な上位者と対局したこともないため、自らがこれほどまでに大差をつけられる事態に納得がいっていなかった。


「このボクが……天才であるこのボクが……! お前みたいな小娘に……クソッ!」


 頭をフル回転させてなんとか賢乃の手を読み切ろうとする玖帝。しかし、その先にあるのはどれも奈落。橋を渡る方法などどこにもありはしない。


「なんで、どうして……どれも、どんな手も通用しないんだ……!」


 ここにきてようやく賢乃と目を合わせた玖帝は、恐れ慄いて無言の悲鳴を漏らす。


 当然だ。玖帝が今相対しているのは、賢乃を通じた最強のコンピューターである。研究のために一手一手AIが精査していった、完全無欠の最善手である。香坂賢人が積み上げてきた、『香坂流』という名の努力の全てである。


 一介の天才如きに打ち破られる戦術ではない。


「き、キミは誰なんだ……?」

「──香坂賢乃。香坂賢人の、"妹"ですよ」


 そう言って賢乃は、自らの頭に人指し指をトンと突き付ける。玖帝にはその意味が分からない。そして彼は──これ以上考える必要もない。


 賢乃は玖帝を見上げると、一方的な勝利宣言を言い放った。


「ところで、これはわたしの勝ちでいいですか?」

「は……?」


 呆けた顔をする玖帝に対し、賢乃は盤上の横に置いてある対局時計を指さす。するとそこには、玖帝の持ち時間が"0"になった数値が表示されており、玖帝の時間切れを意味するブザーが鳴っていた。


「いつ、のまに……」


 集中しすぎてしまったが故に、玖帝は自らの持ち時間を把握することを忘れていたのだ。


 将棋は集中を問うものでありながら、集中しすぎてもいけない。時間配分、心理戦、そして盤面を読む力。その全てを完全にこなさなければいけないのだ。


「た、賢乃ちゃん、また勝ったな……」

「ああ……もうこれ、優勝するんじゃないか……?」


 観戦者たちは、その静まり返ってしまった会場で言葉を漏らす。ここまで来ると信じざるを得ない、信じなければ失礼に当たる。


 今の賢乃は完全に無双状態。もはやどんな場面でも勝利してしまう。例え相手が天才ともてはやされた者であったとしても、あの『香坂流』を解剖した者であったとしても、今の賢乃に敗北の二文字は存在しない。


 そして、そんな賢乃と対局した者達は後にこう語ったそうだ。


 ──あれは、あの少女は、"香坂賢人の生まれ変わりだ"と。

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