7話 聞かれてしまった真実

 

 一回戦を快勝で終えた賢乃は、勝利の余韻に酔いしれる暇もなく緊迫した顔色でトイレへと向かっていった。


「ヤバいヤバいヤバい……! もれる、もれるっ……!!」


 将棋の対局中はトイレが許可されているが、持ち時間はそのまま進んでしまうため中々席を立ちにくい。しかもアマチュア大会のような短い持ち時間で対局する場合は、トイレに行くこと自体が大きなハンデになってしまうこともある。


 賢乃がまだ男だったときは一局分くらいの尿意は我慢できた。しかし女の子になってしまった今では、女性の身体に慣れない弊害もあって尿意が我慢できず決壊寸前。いつもの感覚で高を括っていた十数分前の自分を殴りたいと、賢乃は会場の廊下をスリッパでペタペタと走る。


 小さい体のせいか、いつもよりトイレまでの距離が遠く感じる。しかし尿意如きに負けるわけにはいかない。そんな必死の思いで賢乃はようやくトイレにたどり着き、男性用と書かれた個室の扉を勢いよく開けて──そして、先客と目が合った。


「あ」

「あ」


 そこには、賢乃と同じように一回戦を終えてちょうど用を足している虎飛がいた。賢乃は男性用のトイレに入ってしまったのである。


「おまっ……!」

「あ、あぁぁああ間違えたぁぁっ!? こ、虎飛でよかったぁぁぁ……!!」

「俺でよかったってなんだよ!! さっさと出てけ!」


 虎飛の叫喚にすぐさま男性用のトイレから退出する賢乃。そして僅かなためらいと共に女性用のトイレへと駆けこんでいった。


「あ、危なかったぁ……。もし虎飛じゃなかったら犯罪者になるところだった……」


 便器に座りながら両手で顔を覆い隠す賢乃。TSものではお約束の展開でありながら、尿意に追い詰められていた賢乃はそのことを思いっきり失念していたのである。


「ふぅ……それにしても、この身体だと結構疲れるな……」


 一難去ったところで、賢乃は改めて自分の置かれている状況を整理し始める。


 まず、周りの視線が思ったよりも気になる。これまでも周りの観戦者から視線を向けられることは多かったのだが、それはどちらかと言えば対局中の局面などに集中した視線だった。


 しかし、今回に限ってはその視線が自分自身に、もっと言えば身体の方に集まっている気がする。いつもと違ってより見られている感が強い。不快かと聞かれると慣れてしまったものなのでそうでもないのだが、思ったより集中力がかき乱されることに賢乃は困惑していた。


「まぁ、これも慣れていくしかないか……。でもよかった。一回戦も無事勝てたし、『香坂流』も上手くいった」


 そう、肝心の対局内容──『新・香坂流』についてはまさに大成功を収めたといってもいい結果だった。


 相手が研究していることを前提に過去の『香坂流』を捨てることなく、『新・香坂流』を新たな戦術に組み込めたのは大きい一歩だ。これで賢乃は対策に対する対策を完全に講じることができたことになる。


 残された懸念点があるとすれば……。


「……いや、これは今考えることじゃないかもな」


 会場から響いてくるマイクの声にふと現実に戻った賢乃は、水を流してトイレを出る。何事も目先の事柄が優先。まずは勝つことから始めなくてはならない。


 賢乃がトイレを出ると、奥の壁に寄りかかって賢乃がトイレから出てくるのを待っていた虎飛がいた。


「よっ」


 虎飛はスマホを片手に手を上げる。


「さっきは悪かったな」

「いいってことよ、TSの恒例行事だったしな」

「まったくだ……」


 賢乃はそのまま虎飛の隣に並んで二人で会場まで歩き出す。


「それにしても、俺は直接見たわけじゃないが、何やら派手にやらかしてみたいだな?」

「やらかすってなんだよ。普通に勝ったんだよ」

「その普通に勝つことが異常なんだよ。お前はもう香坂賢人じゃないんだぞ? それに『香坂流』まで使って……」

「あーはいはい分かった分かった。それで? 虎飛の方はどうなんだよ?」


 話を逸らすように賢乃は虎飛に聞き返す。


「俺も普通に勝ったよ。可もなく不可もなくだ」

「けっ、人のセリフパクりやがって」


 賢乃は虎飛の脇腹を小突く。それからしばらくの沈黙が続いた後で、虎飛が口を開いた。


「……にしても、本当に通用したんだな。お前の新しい『香坂流』」

「ああ、当然さ。いったいどれだけ研究したと思ってる。これで通用しなかったら引退だよ引退」

「まぁお前、廃人になるくらいぶっ通しだったもんな。てかお前、その弊害でTSしたんじゃね?」

「はははっ、かもな!」


 そんなやりとりをしながら、互いに笑い合って会場へと向かっていく賢乃と虎飛。古い友人同士でありながら性別が変わってもいつも通り接してくれるのは、虎飛が人を表面だけで判断しない男だからである。


「それにしても賢人よぉ」

「おいバカっ」

「あっわり、つい癖で。……てかここじゃ誰もいないし別にいいだろ」

「誰かが盗み聞きしてるかもしれないだろ?」

「なんだよそれ、漫画みたいにか? 現実だったらストーカーじゃねぇか、ありえねーよ。フィクションじゃあるまいし」

「既に俺の存在が思いっきりフィクションなんだよ」

「それは確かにな! あとで一枚撮っていいか?」

「自分の棋譜でも撮ってろ」

「うはははっ!」


 そうして笑い合いながら二人は会場の中へと入っていく。まだ大会は試合の真っ最中、ほとんど選手や観戦者が対局に注目している。そんな中でまさかこんなところをうろついてる人などいるはずがないと、二人はそう思っていた。


 しかしその途中、そんな二人の背中を追うように息を殺しながら盗み聞きしていた女性が陰から顔を覗かせた。


「ウソ……あんな子供が、香坂賢人ですって……?」

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