6話 過去の遺物と現代の怪作が組み合わさるとき

 

 賢乃の気配が一変してから形勢は大きく傾き始める。


「バ、バカな……」


 右辺から左辺までバランスよく組まれた囲いを自ら崩し、突貫兵のように攻めに移行させたその戦術はまさしく『香坂流』の神髄。鎌瀬はその攻めがくることを分かっていながらもなぜか対応できず、不可解な現象を目の当たりした迷い人のように驚愕の表情を浮かべていた。


 賢乃はしたり顔で大駒を捌く。それを許してしまえば形勢を取り戻せないというのに、鎌瀬はその手を防ぐことができずにいた。


「な、なんで『香坂流』が通ってるんだ……?」

「わ、分からねぇ……! どうなってやがる……!」


 観戦者の表情が青ざめていく。そして目の前の少女に対する目付きが変わっていく。


 そもそもとして、『香坂流』というのは膨大な選択肢から攻めを選べる非常に理想的な戦術である。


 攻めるパターンは何十通りと分かれていて、その全てを把握するのは一個人の人間では不可能な領域にまで達している。故にその戦術を使えるのは香坂賢人ただ一人であり、その戦術を他の人間が膨大な時間をかけてまで覚えるメリットはほとんどない。


 そしてこの戦術の最大の特徴は、常に相手の切り出した一手に対する後出しが可能な点にある。何十通りというパターンから選ばれた分岐点に対し、相手が受け手となる手を繰り出しても、こちらはそれに対する後出しの最善手が割り込みできる。


 それは本来の将棋の形に近しい対応なのだが、こと『香坂流』に関してはそのあまりにも膨大な分岐数故に研究が及ばず、研究したところでそれを使用するのが香坂賢人ただ一人なのであれば研究する余地すらない。


 だからこそ、この『香坂流』は賢人が日本一を取るまでは誰も研究しなかった戦法なのだ。


 そうして公に晒されることとなったこの『香坂流』。初めは弱点のない完璧な戦術だと評価されていたのだが、一週間が経つ頃には明確な弱点が浮き彫りになった。


 そう、この戦法は完璧故に弱点がある。


 仮に『香坂流』がどんな受け手を繰り出したとしても切り返されるというのであれば、一旦この『香坂流』を繰り出させてから反撃に転じればいいという話ではないのか。


 前提として、将棋と言うのは常に相手の理想形を組ませないところから研究が始まる。それは『香坂流』も同じで、最初は組ませない方向性で研究が進んでいたのだが、どう頑張っても切り返される手が生まれてしまうために完璧な戦術だと賞賛されていた。


 しかし、この『香坂流』を喰らってしまった盤面に研究者たちは注目した。


 果たしてこの局面は、『香坂流』に有利な局面なのだろうかと……。


 見た目は確かにリードしている。数値上でも僅かに勝っているし、将棋ソフトのAIも『香坂流』の方が優位性があると結論を出していた。だからこそ完璧と謳われていた。


 だが、その形は決して良いものとは呼べず、何かしらの破片がこぼれ落ちたのをきっかけにすぐにでも崩壊してしまう戦型であることは誰の目から見ても明らかだったのだ。


 そして、研究者たちはその盤面がどういう理由で優位に立っているのかを細かく分析し、解析を繰り返した。そしてひとつの発見へと至った。


 ──それは端歩。将棋の盤上の、一番端にある"歩"である。


 この端歩が突いてあるかないかで、数十手後に完成する『香坂流』の形勢が大きく揺れ動いていた。何も関係の無さそうな端の歩を突くだけで、それ自体が『香坂流』の対策になっていたのだ。


 つまり、序盤の段階で事前に端歩を突いておけば、『香坂流』に組まれても対応できる。という結論を出したのである。


 これが『香坂流』に対する明確な対策であり、香坂賢人に打ち勝つ明確な必勝法だった。そして『香坂流』が速度に関係のない戦術であるが故に、先手を引こうが後手を引こうが端歩を突いて手損しても問題ない、というメリットでもあった。


 これらが書かれた対策本は香坂を知る者達から広く買われ、多くの人に知れ渡ってしまった。


 鎌瀬もその一人である。


 相手側から『香坂流』の傾向が見られた場合には、必ず端歩を突いて対策する。鎌瀬はその手順を守ってしっかりと対策を打ち出していた。仮に目の前の少女が香坂賢人の息がかかっているのだとしても、所詮は時代遅れの『香坂流』。しかも目の前の少女は香坂賢人本人ですらない。そんな力量では自分を倒す事などできはしないと、鎌瀬は嬉々として『香坂流』の対策を繰り出していた。


 ──あぁ、甘い。


「なん、で……?」


 ──甘すぎる。


「いったい、どうなって……」


 鎌瀬は狼狽えた瞳で少女を見る。その瞳の奥に隠された感情は表情よりもずっと深刻で、まるでなにか、見たこともない怪物を目の前にしているかのような恐怖心が植え付けられていた。


「は、端歩は、ちゃんと突いて……」


 胡乱にまぎれた少女の霧が晴れて行く。


 鎌瀬はその真意に気付いたのか、ようやく自分の局面をさかのぼって状況を把握し始める。そして唯一自分が残してしまった『弱点』を顧みて、絶望の表情に染まりきった。


「まさか……」


 そう、弱点はその"端歩"である。『香坂流』の対策として終止符を打てたその"端歩"こそが香坂賢人の、そして香坂賢乃の唯一付け入る隙だった。


 元より『香坂流』は手待ちしない珍しい戦術のひとつ。それは先手でも後手でも両方使える万能性を秘めていることから、本来であれば多くの人達に使われる可能性があった。


 しかしそれは、相手の手損を鑑みないと言っているようなもので、相手側が端歩を突いても合流してしまうことからこれほど簡単な対策が出てしまったのだ。


 ……であれば、咎める隙はその端歩を突いたにあるのではないかと、当時の賢人は睨んだ。


 将棋は一手一秒が何よりも重宝されるボードゲーム。何気なく指した一手が無駄になったせいで敗北することも少なくはない。そして、それはいくら『香坂流』のためとはいえ、その戦術が使われる前提で先読みの一手を繰り出すことは非常にリスキーとも言える。


 だからこそ、賢人は相手が端歩を指した一手分を利用して、こちら側の『香坂流』に一手何か手を加えることはできないかと考えたのだ。


 そして見つけた。見つけることができた。


 長い研究の果てに、苦悩に身を焼かれる時間を耐え抜いて。賢人はその端歩を咎める手を見つけ出したのだ。


 これによって『香坂流』は完成する。


 相手が端歩を突けば『新・香坂流』。端歩を突かなければ『香坂流』と。ふたつの戦術を組み合わせることで本当に対策不可能な悪魔の戦術を生み出したのである。


「……あ、ありえない……」


 鎌瀬は動揺して手を震わせる。多くの研究者たちが結論付けた対策に、こんな小さな少女が上回れるはずがない。何かの間違いだ、何かの夢だ。そんな現実、起こり得るはずがない。


 そんなことができるのは、そんなことが可能なのは──。


「アンタ、まさか……」


 怯える声でそう呟くと、賢乃はニコっと微笑んで鎌瀬を見上げた。


「……ッッ!!」


 鎌瀬は首を刈り取られたかのような錯覚に落ち、全身から濁流のような汗を流す。


 形勢は優位どころの騒ぎではない。賢乃の圧倒的な優勢、いや勝勢である。ここから巻き返すことはもはや不可能。鎌瀬は気付くのがあまりにも遅すぎた。


 絶対的な差を前に、鎌瀬は目を見開いたまま俯いて項垂れる。


 彼はようやく気付いたのだ。


 ──目の前に座している少女が、本当は"誰"なのかを。


「……ま、負けました」

「ありがとうございました~」


 鎌瀬の投了に賢乃は優しく返事をして席を立つ。


「トイレトイレっ」


 そう言って一人トコトコとトイレへ向かう賢乃。そんな和やかな雰囲気とは裏腹に、鎌瀬の周囲は絶句に飲まれていた。


「……う、嘘だろ」

「な、なぁ、今鎌瀬さんが投了したのか? 聞き間違いじゃ、ないよな……?」

「あ、ああ……。一体何者なんだ、あの女の子……」


 そんな風に周りの観戦者がざわついてることなど、尿意に意識を持っていかれた当の本人は知る由もなかった。

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