5話 新・香坂流

 

 周りの者達は皆、不可解な奇縁を見ていた。


「は……?」


 灯台に照らされた目標は嬉々として笑みを零し、腰掛けた玉座からゆっくりと立ち上がると、その者は一拍をおいて瞥見。その足は誰よりも軽く歩を進め、誰よりも速く飛ぶような進軍を見せた。


「ろ、6八玉……?」


 香坂賢乃が指した手は常軌を逸するものだった。常識を疑うものだった。なぜそんな手が指せるのか分からない。分かるはずもない。


 それが普通の一般クラス、BクラスやCクラスで指されたものなら納得がいくかもしれない。しかし賢乃の座っている場所は最上位のAクラス。この会場で最も強い者達が座る場所である。


 観戦者達が驚いた理由は単純だった。それは既視感と恐怖に刷り込まれた記憶から呼び覚まされるもの。"彼"を知っているからこそ戦慄するもの。


 将棋には『定跡じょうせき』がある。


 理にかなう。当然の。当たり前に思える。まさしく合理的な判断。それが『定跡』。それは長い歴史の中で幾多もの天才たちが積み上げてきた結晶であり、決して破れることのない最善の選択だ。


 しかし、賢乃が指した手はその『定跡』から外れた一手だった。


「おいおい、これじゃあまるで……」


 そう、それはまるで──。


「あのみたいな戦い方だ……」


 周囲がざわつく。


 駒の音と苦悩に唸る声だけが響く静寂の会場にて、賢乃の周りにいる観戦者だけが小声を漏らし始める。あり得ないという真意とは裏腹に、現実はただひとつの真実だけを映し続ける。


 その中心に座しているのは名も知らぬ少女だ。


 そんなはずはない。そんなことあるはずがない。これはきっと何かの見間違いだろう。……そう思っている鎌瀬を含む観戦者達を前に、賢乃は平然と『香坂流』を流用する。


 指し手は常に鋭敏に、全ての駒が睨みを利かせ、自陣の隙に罠を張り巡らし、標的を失った敵を翻弄する。ただじっと身を潜めて機会を窺う伏兵は、強靭な切れ味を持つ刃を不可視の鞘から一閃の如く抜刀せん。


 その戦術を使った者は香坂賢人ただ一人であり、その戦術を使って日本一の座を掴み取ったのも香坂賢人ただ一人である。


 初手で王様を繰り上げることから始まる『香坂流』という戦術は、まさしく毅然たる王自ら戦場に立つ圧倒的な風格を醸し出している。更に言えば、一介のアマチュアが考案した戦術故に『定跡』として区分されることもなく、彼が日本一の王冠を掴み取るまでは誰も対策できなかった悪魔の指し方でもあった。


 賢乃は平然とその手を指した。


 香坂賢人の妹であればそのくらいは可能だろう。Aクラスに出るだけの自信があるのなら、あの『香坂流』を真似することくらいはできるかもしれない。それにこの戦術は初見殺しでもある。知見されることのない小さな環境においては最強を誇った戦術のひとつだ。もしそれをBクラスやCクラスで使用したのなら、強力な作戦として他を圧倒していたに違いない。


 だが、それは過去の遺物である。


「……ククク」


 賢乃と相対していた鎌瀬は顔に手を当て小さく笑みを零した。


「なるほどな。嬢ちゃんの自信の源はか」


 鎌瀬はニタァと口角を上げると、持っていた歩を叩きつけて攻守逆転の切り返しに転じた。中盤戦における定跡の破綻は恒例、それは悪魔の戦術『香坂流』も例にもれず同じである。


 その手を指された際、一瞬だけ賢乃の表情が険しくなった。


「終わったな」

「ああ……」


 外野は既に結果でも見たかのような素振り。賢乃に送られる視線は哀れみと同情を含むもの。それは必然の流れであり、必然の結果へと繋がるものでもあった。


 ──『香坂流』は、既に対策されている。


 それは香坂賢人が日本一になった時点で避けられないものだった。


 将棋は常に研究が行われ、目立つ戦果を挙げたものから集中して解析が行われる。これまで輝きを放ってきた数多の戦法も彼らの贄にされ、隅々まで解剖された挙句、骨すら残らず消化される。


 得てして稀有な戦術が残るはずもなく、それまで猛威を振るっていた『香坂流』も、香坂賢人が日本一になった時点でタイムオーバー。多くの将棋指しに認知され、序盤から徹底的に研究された挙句に対策本が出版された。


 まさしく、なるようになってしまった結果である。


 それから賢人は大会に出場しなくなり、世間に顔を見せることも無くなった。当然の帰結である。なにせ『香坂流』で名を上げた自分が大会に出たところで、その対策を知っている者達からカモのように屠られるだけ。バカにされるだけなのだから。


 自分の時代は終わった。瞬きのような一瞬の奇跡だったのだろう。


 それから賢人は一人で家に引きこもるようになり、寝る間も惜しんで研究を続けていた。


 あれも違う、これも違う。この戦法は使い古された。この定跡は現代では通用しない。そんな終わりのない課題とともに、朝から晩まで研究漬けの毎日を繰り返していた。


 やっとの思いで発見があったかと思えば、次の日には弱点が見つかってまた振り出し。ようやく一歩進んだかと思えば、相手側に妙手が見つかってまた振り出し。


 永劫とも思えるような長い時間の中、賢人は初心に帰って『香坂流』の見直しに入った。


 本当に自分の戦術は間違っていたのだろうか。誰かから解析されただけで終わってしまった過去の遺物なのだろうか。


 ……そんなはずがない。


 もし『香坂流』に弱点があったのなら、自分は日本一になどなっていない。途中で何らかの障害にあたり、打ち砕かれていたに違いない。……だって自分はまだ負けていないのだから。香坂賢人の戦績には黒星がまだひとつもついていないのだから。


 本当にこの戦法は終わってしまったのか? 本当に? 本当に?


 繰り返される疑問に終止符を打つべく、賢人は机に向かって頭を抱え続ける。既に両脇には本の山で埋め尽くされており、目の前には何万という手順が解析された将棋ソフトを映すPCが光を放っていた。


 賢人にとって『香坂流』は絶対的な戦術だった。数多ある戦法の中から唯一を創り上げた渾身の作戦だった。それをたった一度見ただけの解析者達がよってたかって貪り尽くしてハイ終わりだなんて、納得がいくわけがない、受け入れられるわけがない。


 途中で何度も虎飛から「大会に行こうぜ」と連絡が来ていたが、賢人は準備が整うまで一度もその誘いに乗ることはなかった。どうせ大会に出るなら全てを見返す準備が整った状態でいきたい。香坂賢人は時代遅れだと後ろ指をさして胡坐を掻いていた者どもの喉元を噛みちぎりたい。


 そんな想いを胸に抱きながら賢人は研究を続けた。途中で激しい頭痛に見舞われたこともあった。座っているだけなのに体中が軋みを上げて動けなくなる時もあった。それでも賢人はただひたすらに『香坂流』の全てを解析し続けた。


 そして"その時"が来たとき、賢人は深い眠りと共にベッドへと倒れたのである。


 それから目が覚めたら、なぜか知らない美少女に性転換。顔も骨格も背丈すら変わってみたこともない姿に成り果てていた。


 しかし、そんなことはどうだっていい。そんなことは些細な事だ。


 賢人にとってこの大会は自らの出発点、起点なのだ。一時の英雄として祭り上げられ、そのまま静かに消化されていった『香坂流』を復活させるための出発点。


 確かに今この場に香坂賢人はいない。いなくなった。もしかしたらもう現れないのかもしれない。誰からも認識されなくなり、やがて棋界の歴史からも消えて無くなってしまうのかもしれない。


 しかし、その記憶は彼の──今のの身に宿っている。


 行雲流水。何物にも縛られなくなった彼女は今、かつての絶対的な王者の気迫を解き放っている。香坂賢乃として、無念に打ちひしがれながら消えていった自分の代わりにこの場に立っている。


 出る杭は打ったと嘲笑を零す鎌瀬。所詮は終わった世代の継承だと胸をなでおろす観戦者。そんな者達を一蹴するかのように、賢乃は遠い記憶の中からこの場における答えを掴み取る。


 さあ、平穏の終わりだ。偽りの平和の終幕だ。


 舐め腐っていた強豪も、下に見ていた豪傑も、今この瞬間よりわたしが統べる。


 それまで俯いていた賢乃は、鎌瀬を越えるほどの醜悪な笑みを浮かべて盤面を見下ろした。同時にそれまで余裕を見せていた鎌瀬は目を見開き、賢乃から放たれる並々ならぬ気配に動揺する。そして刹那、心臓を掴まれているかのような感覚に陥った。


 待たせたな、諸君。これが香坂賢人の導き出した答えであり、彼が遺した最後の遺物だ。是非とも骨まで喰らい、死屍累々と化していってくれ。


 ──『新・香坂流』。新たな時代の怪作だ。

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