ホラー作家と私の共鳴

りら熊々

第1話


 「知らなかったの?」と息子に驚かれた。


 情報収集は以前から某SNSのみ。メディアに疎いせいで、その悲しい知らせに辿り着けなかったのかも知れない。


 作家小林泰三の訃報に初めて触れたのは、人生初の手術を2週間後に控えた、ある冬の日だった。すでにこのとき、逝去されてから2年以上が経過していたのだから、そもそも軽々しくファンを名乗ることすら憚れる。


 それでも私の心は、大きく深い穴にすっぽり嵌まるように、綺麗に落ちていったのだ。なぜなら、同じく小林泰三の世界に魅了された仲間である息子に、先日購入した小説が面白かったこと、それがシリーズものだったので、残りの3冊を買ってきたことを、たった今報告したところだったから。それは即ち、そのシリーズ作品が未完である可能性を孕んでいたから。


 そして私の予感は悲しくも当たってしまった。面白かった小説の続きが読めるというわくわくした気持ちが、最終章を絶対に読めない絶望へと姿を変えた。


 基本的に私は、好きな小説を人に勧めるということをしない。小説を好んで読む人があまり周りにいないし、いたとしても大抵趣味趣向が異なるからだ。ましてや小林泰三は人に勧めにくい。その理由は後に述べるとして、それでも、どうしても誰かに読んで欲しいと思う作品があったのだ。


 「酔歩する男」という、簡単に言えばタイムループものだが、到底簡単に言い表すことなどできない、難解で複雑怪奇な物語である。ある女性を助けるため、ある男がもうひとりの男の協力を得てタイムワープし、閉じられた時間の中で過去を何度もやり直すというストーリーである。よくある時間遡行ものに思えるかも知れないが、そんなシンプルな造りではない。

 「シュレーディンガーの猫」、観測者が箱を開けるまでは、猫の生死は決定していないという思考実験であるが、この「観測するそのときまで事実が決定していない」という理論でもって、タイムマシンを作ることを断念したふたりの男が、過去に戻るため、人道に悖る、ある恐ろしい結論に至る。そしてそれを実行してしまうのだ。


 グロテスクな場面も多く、読み進めるほどにまさに酔っ払うような、頭がぐらぐらする感覚に襲われる。余りの気持ち悪さに、この不気味さを理解して欲しく、しかし誰しもに敬遠されそうなので、唯一読んでくれそうな息子に勧めたのである。そしてどっぷり、息子は小林泰三の世界に嵌まり込んだ。


 小林泰三の小説のジャンルは何かと問われると、どう返せばいいのかわからなくなる。グロテスクな表現を得意とするホラー作家であるが、その魅力はそれでは語り尽くせない。ミステリ要素もSF要素も、ギャグ要素でさえ、全てが超一流で、そして独特である。訳のわからないロジックをめちゃくちゃに組み立てているように見えて、その実、骨組みはしっかりと、説得力のある設定でリアルを描く。読む者は騙されているような感覚の中で、狂ったロジックに取り囲まれ、気付けば小林泰三という中毒症状に掛かっている。


 そして後に私は、この中毒の果てに、小林泰三の作る狂気の世界を「実際に身を持って体感する」という、恐ろしくも不思議な体験を得た。


 その舞台は2週間後、そう。人生初の手術を受ける、さる病院である。


 小林泰三の未完の名作を持って、私は手術のため病院に赴いた。さほど難しい手術ではないという安心があったせいか、または全室個室という贅沢な環境にあったせいか、手術の日まで、日頃から溜め込んでいた「積ん読」を読み、優雅な入院生活に浸っていた。


 手術当日も、手術が始まるその直前まで、小林泰三の件の小説、「ティンカー・ベル殺し」に私は夢中になっていた。


 未完であるこのシリーズでは、地球外の異世界のような場所で、自分とリンクする「アバター」が存在し、登場人物は夢を通して地球と異世界を行ったり来たりする。シリーズを通して出演する、蜥蜴のビルという間抜けな、それも行き過ぎた間抜け具合で、寧ろ愛嬌さえも感じるキャラクターに、私は心酔した。

 未完で終わるなんて、もうビルに会えないなんて寂しいと思いながら、未完の中の最終章を読み耽っていた。そして、遅れた手術予定時間のお陰で、術前に最後まで読みきることができたのだ。


 詳しい内容は端折るが、私はこの終盤のシーンで、登場人物である、ある悪人がこうむった不幸に身震いした。


 その悪人は、雪の中で熊に襲われる。ただ襲われるだけではなく、言わば不死身の状態で、熊に食われ続けるという「タイムループ」に陥る。

 手から順に食われ、引っこ抜かれ、2時間以上かけてゆっくりと、彼は「死んでいく」。そして真っ白な雪の中で蘇り、巻き戻った時間の中で、再び熊に襲われる。甦る度に悪人は、時間をかけてじっくりと熊に食われ、何度も死ぬ。


 それが延々と繰り返される。その表現の、何としつこいこと。


 通常の小説では、同じ文章の繰り返し表現は、読者を飽きさせる恐れがあるから、できるだけ避けるだろう。けれど小林泰三は避けない。敢えて同じ文章を、グロテスクに、何度も、何度もリフレインする。こちらはもう充分小林泰三の毒に侵されているというのに、まだ許してもらえない。

 これでもかと読者を追い詰める、これが小林泰三の魅力のひとつであり、また私が、この作家を人に勧めにくい理由でもある。


 吐き気のような目眩を与えたまま小説は終焉を迎える。


 毒された目眩から覚めぬ状態のまま、私は麻酔を嗅がされ、すぐに失神した。そして私の預かり知らぬ間に、首を切る手術は終わっていた。


 目覚めたのは自分の病室ではなく、術後の患者がその夜を過ごす、リカバリールームという名の部屋である。その中で私は、小林泰三が描いた「タイムループ」を、追体験した。いや、タイムループではない。恐ろしく、のろのろとしか進まない永遠と思える時間の中に「閉じ込められて」過ごしたのだ。


 幾度も繰り返し目覚めて、気を失うように何度も眠る。


 真夜中の2時だ。


 今回はずいぶん長く眠った、少なくとも数時間は経っていると感じている。なのに眠りに落ちてから、時計はほとんど進んでいない。


 熊に掻き切られた首元が熱い。いや、熱いのは背中だ。背中が燃え上がるように熱いから、布団を剥ぐ。眠る。


 突然寒気に襲われ、目が覚める。時計を見る。


 また、2時だ。数時間は経った筈なのに。


 寒気がきて、雪原の夢を見せる。雪の中だ。やってくる。ほら、あの熊だ。時計を見ろ、ほら、やっぱり2時から、ほとんど進んでいない。


 時間が止まってしまったのだ。


 布団を被れば良い。暖かくなれば雪は解けるから。布団に埋まり雪原が消えると、次は乱暴な眠りがやってくる。暖かい。


 違う、熱いのだ。燃えるようだ。


 首をやられたから、首が燃えるようだ。いや、燃えているのは背中だ。汗をかいている。布団を捲れば良いだけだ、それで涼しくなるから。


 足で掛け布を跳ね上げる。蒸れた熱気が夜気に撹拌し、また強い眠気にさらわれる。


 寒い!雪原に埋まった私は、熊に襲われる恐怖に耐える。


 体は凍てつき、頭と手足、胴体というふうに、ばらばらと千切れそうだ。千切れているのか、熊に食われたのかわからない。


 苦しい。

 時間は。

 まだだ。


 まだ、ほとんど進んでいない。

 

 私は2時という時間に閉じ込められたのだ。生きてリカバリールームから出られない。そんな予感が過る。


 これでは、時は永遠に進まない。

 

 小林泰三の毒は、術後の私を恐怖へといざなった。発汗ののちに悪寒に包まれる、体のこの激しい変化に雪のイメージを被せ、切開した首の熱い違和感に、熊の鉤爪を思わせる。そして永遠に朝はこないのではないかという、時間の中に閉じ込められるその恐怖を、あの物語が裏付けていく。


 時間ののろさが恐怖に置き換わった体験など、後にも先にもこのときだけである。


 私は小林泰三を、小林泰三の描く恐怖の世界を、追体験したのだ。恐ろしかった。体が千切れて時が永遠に止まるのかと思った。恐怖の読書体験。ファン冥利に尽きるとは、このことだ。


 結果的に言えば、非常に遅いスピード感ではあったが、当然朝はやってきた。 そしてあっけなく、付き添いもなく、私は自分の病室に帰された。


 その日から、リカバリールームを恐ろしい目でみるようになった。ここで、私は時間の中に閉じ込められたのだと、震えながらそこに横たわる人々を見た。


 みな、首をやられている。この病院にくる人は、みな元気でしゃきしゃきとしている。そしてみな順番に、首を切られていく。生々しい傷痕の脇には、真っ赤な管が刺さっている。


 全員が首を切られ、全員が首に管を刺される。その管は、真っ赤な液体を溜める容器に繋がっている。そして管の抜けたものから順番に、病院から消える。


 私たちはまるでベルトコンベアに乗る、肉塊のようだ。


 いけない。肉塊だなんて。私はまだ、小林泰三の小説から、抜け出せていなかったようだ。私たちは肉塊なんかではない。単なる患者なのだ。


 このようにして私は、人生初の手術を、私の内面にだけ起こった恐怖体験を、終えた。


 手術後、首ばかりを切る、この甲状腺専門病院を再び訪れ、良性の腫瘍であったことを告げられた。残った甲状腺も一人前の仕事をこなし、数値は正常値を示した。私は無事生還したことを実感した。


 偶然か否か、病院の名は。…いや、そこまでは言うまい。


 人生初の手術を恐怖で彩ってくれた、小林泰三の世界。恐ろしさの中に見え隠れする、唸るような説得力。魅力。吸引力。


 私はまたさらに、小林泰三という人間に、その物語に、その世界に、どっぷりと浸かったことは言うまでもない。


 そしてその熱い思いは、新作を決して読めないのだという、絶望を含む寂しさの感情に、変換されていくのだ。

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