第2話

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「はぁ」


 痛みから解放されて緊張の糸が切れる。

 上体を横に倒してもイスのスペースは十分広いから、クツを脱いで完全にイスの上に横たえる。

 頬に感じる赤い布のフェルトの感触が心地よくて、春の日差しが暖かくて、ようやく心に余裕が生まれたわたしは、横になった状態のまま満開を迎えた桜林さくらばやしを眺めて無心になる。


 雨が降るかのように地面に降り積もる白い花びら。

 桜餅のような甘い香り、自分以外誰もいない穏やかな空気。

 このまま猫のように眠れたら、どんなに最高だろうか。


「あの、座っても。大丈夫ですか?」


 声をかけられて、わたしは驚いて身を起こそうとした。


「いえ、無理に起きなくても良いですよ」

「あ、すいません」


 物腰の柔らかい男の人の声だった。

 わたしの視界に入らない端のスペースへ、静かに腰を下ろす気配を感じながら、男は「良い天気ですね」と、だれともなくつぶやく。

 

 よかった良い人だ。

 

 わたしは内心で胸を撫でおろしつつ、このイスをほとんぼ独占したままの状況に、若干の居心地の悪いさと、身体を動かすことの億劫さが鈍い頭をめぐっていた。


「じつはね、この桜の木の下には、なにかが埋まっているんですよ」

「…………」


 どこか面白がっているような、なつかしんでいるような、ぼんやりとした声だった。

 反応に困ったが、無視するのも失礼かと思い、わたしは咲き乱れる桜を眺めながら答える。


「もしかして死体ですか?」


 よくあるセオリー通りの回答で答えると、男の笑い声が春の空間を揺らした。


「あはははは……っ! 死体ですか、なんてロマンチックな考え方でしょう」

「は、はぁ」


 どうやら違ったらしい。


「うんうん、なるほど、桜の木の墓標とはなんともシャレているっ! 素晴らしいっ!!! じつに素晴らしいっ!!!」


 底抜けに明るく上機嫌な男の声が、なんだか泣いているように聞こえた。

 どうしたものかと途方に暮れながら、わたしは答えを促す。


「わたしの答えが違うのなら、桜の木の下にはなにが埋まっているのですか?」

「あぁ、私一人だけ盛り上がってすいません。ずっと昔、この桜林にタイムカプセルを埋めたのですよ」

「タイムカプセルですか。よく神主が許しましたね」

「はい、死んだ家族の大切な思い出の品なのですが、誰にも渡したくなくてね」

「……そうですか、家族ですか」


 てっきり学生時代での友人同士で埋めたタイムカプセルだと思った。

 死んだ家族を想い、桜の木の下に埋めた思い出のタイムカプセル。

【死体】と答えたわたしよりも、この男のほうがよっぽどロマンチストではないか。


「タイムカプセルということは、いつか堀り起こすのですか?」

「そうですね。いつかちゃんと供養しないといけないのが、頭ではわかっているのですが」


 なんだか奥歯に物が挟まったような返事だ。


「私は家族を愛していました」

「そうですか」

「えぇ、身体を壊すほど働き、家族が不自由をしないように金銭面で苦労をかけたことはありません。月に数回は外食に連れて行き、海外旅行にも連れて行きました。学校も私立の一流で、子供のしたいこと、妻のしたいこと、すべてを叶えてきたつもりなのに、気づいたら私だけが生きているのです。なんて、世の中理不尽なのでしょう。私のなにがいけないのでしょう」

「……」


 桜がそうさせているのだろうか。

 さきほどまで落ち込んでいた男の声が、不安定な熱量を帯びて語りだす。

 自分がどんなに家族のために尽くしてきたのか、けれどもどうして、自分は一人になってしまったのか。

 桜吹雪が舞い散る光景の中で、世を嘆く男の怨嗟が儚い余韻を響かせて空間に吸収されていく。

 あまりにも明るくて暖かい春は、いつも無情で、だれの心にも寄り添ってくれない。カラフルな花々が咲き乱れて、ねむっていた動物たちが起きだし、裸の枝に緑が芽吹く。灰色の冬からの目まぐるしい色彩の変化は、まるで自分を世界から切り離そうとしているようで、弱った心に狂気と致命傷を負わせるのだ。


「家族が事故で死ぬ前に、大きなケンカをしました。息子が専門学校に行きたいと言い出したのです。妻も息子の味方をして、実家に帰ると言い出して」


 なるほど、妻と息子が乗った車が事故に遭った――とか、そういうパターンか。よくある話だけど。


「実家に帰ると言った時、私が全部悪い、これ以上家族を追い詰めないでと妻が泣きました。どうして、そんなことを言えるのでしょうか。私はこんなにも家族の為にがんばってきたのに。どうしてこんなに寂しい」

「…………ちょっと、いいですか?」


 無限に続きそうな、男の独白を中断させるのに少し勇気を使った。

 どきどきと心臓が高鳴って、緊張から口の中がカラカラと乾く。


「なんでしょう?」


 いま男がどんな顔をしているのか、確かめる勇気なんてなくて、わたしは桜をみつめている。地面に落ちつづける花弁を見て、地面についた花弁がゴミに出される行く末を思いながら口を開く。


「あなたの言葉には、自分の頑張りだけで家族の姿が見えないんです」

「……」


 男の沈黙が怖くなり、わたしは言葉をつづけた。


「わたしは小さいころ、ケーキが大好きだったのですが、今はイカの塩辛が大好きなんです。けれどうちの親は、なんどもわたしが、今はイカの塩辛が好きだと言っても、わたしのためにケーキを買ってくるんです」


 そうだ。昨日もケーキを買ってきてくれた。

 とちおとめの苺ケーキだ。

 わたしはうんざりしてしまって、不機嫌な態度をとってしまったことを後悔する。


「なにが言いたいかというと、息子さんも奥さんも、わたしのように何度も訴えていたんじゃないですか? 寂しいのは当然ですよ。あなたの中には家族の思い出がないんですから」


 あぁ、ふだんのわたしなら言わないであろう言葉。

 これも全部桜が悪い。日常の感覚を麻痺させて、舞い散る美しさと儚さが理性を狂わせていくのだ。

 言いたいことを言って、独りよがりな気分の良さを味わいながら、わたしは埋められる寸前の死体のように桜を見る。


「……あぁ」


 男の低く呻く声がきこえた。

 居心地が悪くなり、わたしが身を起こして帰ろうとすると、はじめて男の姿が視界に入る。イスの端で身を縮こませながら、両手で顔を覆い背中を丸めて泣いている男の姿。

 その姿にぎょっとした。声のせいで、線の細い初老の男性をイメージしていたのだが、実際は薄汚れた作業着姿に、首筋に大きく【ぼん】の字が掘られている、クマのように体格のいい年配の男性が座っていた。


 失礼かもしれないが、わたしは見てはいけないものを見た気がした。

 男の存在を忘れようと、空になったペットボトルをゴミ箱に入れて、賽銭箱に五円玉を放り込み、わたしはささやなか行動を積み重ねて日常へ回帰しようと試みる。


 よくあること、よくある日常。

 わたしはそこに帰るのだ。

 体を治して、心を立て直して、わたしはここで出会った男の存在を忘れて、無事に、日常に、社会に、復帰する。


……数時間後に、自身の些細な願いが脆く崩れ去るとも知らずに。

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