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 彼は約束の5分前にやって来る。いつだってそうだった。


「御機嫌よう」


「お久しぶりです、有田殿」


 弛んだ体つきの中年男性は、室長室に入るや否やブラッドと堅い握手を交わした。

 ブラッドの目には日頃の感謝、有田の目には努力への応援が形になって映っていた。

 相対した二つのソファに二人が同時に腰を下ろした。


「足りていますか?ウチの支援は」


 USCはアメリカ合衆国政府内の連邦機関であった。しかし彼らの壮大なる宇宙計画の実現の為には、国の支援だけではどうにも限界があった。

 そこで名乗り上げたのが、日本で有数の企業を数多く統治する金元財閥。個人的に宇宙開発部門の末に興味を持った当時の会長が彼らのスポンサーになることを決定して以来、その御曹司である有田渚が長官であるブラッドと多くの話し合いを重ねて関係を深めて来た。


「滅相もありません。お陰様で今日も数多くの探査機を宇宙に飛ばせていますし、開発維持にも非常に多くの利益を頂いております」


「ほう、それはよかった」


 軽快に笑いながら煙草を咥える有田。小さなライターから煌めく炎がその先端に移り、煙が空気中で踊り始めた。


「USCが宇宙開発部門を担当してからもう何年か経つんですねぇ・・・。あなた方が成功を掴める日が待ち遠しいです」


「有難いお言葉ですが・・・この部屋は禁煙でして・・・」


「おっと失礼」


 驚いたように火を消す有田。長官室に訪れる度に、このやり取りを繰り返している気がする。

 恩人である有田を指摘することをいつも躊躇ってしまうブラッド、そして毎度の事ながら灰皿のない部屋で煙草を吸おうとする有田。これで何回目かはまるで分からず、苦笑いで乗り越えた。


(有田氏は上機嫌だ。昨日の報告会のようなザマにはならないとは思うが、彼の機嫌を損ねる発言は控えなければ・・・)


 彼は焦っていた。手汗は十分なほどに湧いて出てきた。有田の口が開く度、自分は逃げるように言葉を探すだろうという不安と罪悪感に襲われた。


「そうそう、ミスターブラッド。今度うちのグループが新しい事業を始めるそうなんですけどね、その企業名に名誉ある貴方の名をお借りしたいと思っておるのです」


「わ、私のですか?」


 唐突な議題転換に驚いた。とは言え、暫くは気まずい雰囲気になり得る話を避けられそうなので、少しばかり安心感が生まれた。


「次はちょっと新しめの事業に手を出そうと思ってましてね。インパクトのある社名が相応しいと考えていたところ、ある社員がブラッド氏にまつわるものにしようと提案があったんですよ。優秀な部下を持ったもんです」


 非常に光栄な限りだった。あの金元財閥の新企業の名前の由来に抜擢されようとしていることなど、この上なく光栄なことであった。しかし、ブラッドにはそれを簡単に良しと出来ない理由があった。


「私としては大変嬉しい限りですが、それでは・・・」


 長官就任以来、目立った実績は何一つなく、ここ数年でUSCのイメージが少しでも低下していることに関しては、最早言うまでもないだろう。

 そんな現状を恩人である金元財閥にも背負わせてしまうこととなると、流石に快くはいとは言えずにいた。しかし断り切ってしまえばそれこそ有田の期待を裏切る結果となり、その瞬間、彼の脳内は、昨日の報告会の時よりも様々な粒子が目まぐるしく動き廻っていた。


「まあまあそう仰らずに。今日だって、また面白い話を聞かせてくれるんでしょう?」


 軽く肩に乗せられた有田の右手は、過去にないほどに分厚く感じられた。そこには義理堅い人情か、日本を代表するグループとしての誇りか、いやその両方があったに違いないだろう。

 兎に角、彼の背中には自分よりも大きな光が宿っているのだ。こうして直接会って話せるだけでも恐れ多いというのに、そんな彼の実績に自分の名が残る?あっていい筈がない。

 面白い話と言うのも、過去に成功した宇宙開発から広げた今後の展望に関するものばかりで、自分が直接関わったものについては何も話せていない。

 数多いブラッドの悩みは今、有田の頼みをどのように断れば平和的か、という一つに収束した。

 その時だった。いつもより激しいノックが鳴り響いた。会談中に緊急連絡が入ってくる事自体珍しい上に、連絡に来た職員がかなり慌てている様子であることから、ブラッドはこの事態を異様に捉えた。


「・・・私だ。どうぞ」


 すかさず入室を許可した。秘書のチャップリンが、過呼吸を引き起こしながらゆっくりとドアを開けた。大急ぎで走ってきたように思えた。彼女は片手にしていたタブレットをブラッドに見せた。


「長官・・・これ、を・・・」


 真っ暗闇に僅かに小さな白い点が一つ。その周囲には、プランクトンよりも小さく見える点々が数々。


「何があったんで?」


 見たことのない景色に興味を持ち、有田も画面を覗きに来た。彼にはなんのことやらサッパリだったが、ブラッドは写真が意味することを薄々と感じ取っていた。


「これ・・・は・・・!?」


「探査機イーグルが撮影した・・・ここより40億光年、宇宙空間での画像です・・・!」


 一目見たとき、微かに胸の高鳴りに気付き始めていた。その鼓動は写真を拡大すればする程徐々に大きく速くなって行き、いつしか心がそれに支配されていた。

 今までになかった興奮を覚え、ブラッドの脳裏には幼き頃の兄との思い出が浮かび上がってきた。


「まさか・・・」


 写真が意味する答えは余りにも現実離れしていた。それでも答えを信じたいという願いが強く、いつしか好奇心と興奮が打ち勝っていた。

 この場にいる誰もが聞いたことのないブラッドの心からの叫びが、この瞬間を持って解き放たれた。


「光があったというのか!?!?」


 流れ星に向けて願い事を捧げる小さな子どものような、遠く輝いて見える星を夢見る少年のような、まるで月をそのまま反射したような輝き切った瞳に圧倒され、チャップリンは小さく頷いた。

 この時のブラッドの息遣いは、管制室で情報を受け取り階段で長官室まで走って来た彼女のそれよりも荒かった。


「な・・・そんなことが・・・!?」


 宇宙に関しては無知同然な有田ですら、この事実の大きさは認識出来たようだ。

 画面越しに見れば小さな小さな光であるが、この発見がいつかこのUSCを世界で一番大きな組織にするだろうと、その瞬間に確信した。

 喜びを分かち合おうと隣の男の方を向いたが、気付かぬ間に彼の表情は大きく変わっていた。

 勝ち誇ったスポーツ選手のように拳を握りしめながら、怒り狂った復讐者のように口元を歪めながら、天からの救いを受けた弱者のように、涙を流していた。


「・・・なんて顔してんだい。やっぱりあんたは成功すると思ってたよ」


 この役職に就いて数年、宇宙を夢見て努力し続けた人生の中で、初めて手にした"成功"の大きさを、彼はまだ抱え切れずにいた。

 少年の日に掲げた目標の一つ、『新しい星を見つけ出す』こと。

 これまでに僅かな大きさの星々はいくつも発見してきたが、このように明確な一目瞭然である天体を自らの担当する計画で新たに発見するのは今までにない経験となった。


「チャップリン君!今すぐ国連本部に情報提供だ!!」


 拭っても拭っても零れてくる涙と共に、霞む声を上げて指示するブラッド。

 また走るのかと絶望が背筋を走ったチャップリンだったが、世紀の発見を目前にしてそんなのは些細なことであった。勢いよく飛び出したことで、テーブルの上のコーヒーが少し揺れた。

 事態の大きさを正確に測りきれず笑いに耽っていた有田だったが、耳元でイヤホンが小さく鳴り響いた。


「有田だ。要件を」


「有田さん、今USCにいらっしゃいますよね?なんかニュースが飛んで来ませんでした?」


 聞き慣れた部下の声だ。


「ああ、とても驚かしい一報だったよ。まだ君らには話せないがね」


「いいえ、実はその件なんですが・・・」


 辺りの人々に悟られぬようにしたのか、通話の向こうの声は一段と小さくなり、淡々と趣旨が伝えられた。

 何故そのような情報が伝わって来たのか、そんな疑問は浮かぶと同時に消え去った。

 今、有田の中にあるのは、その情報を活かした新たな未来への指標であった。


「・・・へぇ、ね」


 いつしか彼の顔には不敵な笑みが浮かんだ。

 考えれば考えるほどその道筋は現実味を帯びて行き、実現すれば必ず大きな遺恨を残すだろう。

 この光の発見を役立てるためには、まずこの男を支配しなければならない。未だ拳を握り締めて勝利を喜んでいる少年のようなこの男を。


「有田さん・・・」


 ブラッドは鼻声を隠さずに近付いて来た。そして右手が差し伸べられた。今回は、いつものような自信なさげな握手ではなく、しっかりと結果を掴み取った後の堅い契りだった。


好奇心ワクワクが 止まらない」


 有田の手の厚さに追いつけずに苦しんでいた心など、疾うに消え去っていた。

 今や目標であった実績を掴めたどころか、幼き日から夢見てきた存在し得なかった現実が目の前にあった。

 数少ない自身の長所と言えばいつまでも少年心を忘れないところにあったが、遂にそれが頭角を現した。

 涙が溢れて熱い眼の奥には、かつて自由帳に描いた星々の数々、創作した宇宙の全貌、そして無責任に思い浮かべた太陽に代わる幻の恒星・・・。それらが色を成して輝いていた。


「貴方方の勝利を、誰よりも近くで見守るつもりですよ」


 有田には、彼の真っ直ぐ過ぎる眼差しを綺麗なものと受け取ることが出来なかった。

 しかし、心を鬼にする覚悟は出来ていた。結局はこの男も仕事でやっていることだった。これからある程度金元財閥の利益となるように仕向けても、それがビジネスの場というものだ。

 叶えられたばかりの少年の夢を握り潰すように、ブラッドの右手に応えた。



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