第5話

「バカ」


 泡のように吐いたこの二文字が、人であった私の遺言。

 孤独を癒す薬が他人の血でしかない、哀れな神の末裔に手向たむけた言葉。

 水底へ沈み込むように意識が落ちる。

 視界には暗闇が広がり、頭上から真っ逆さまに落ちた先で、黒いローブをまとった女の姿があった。


 海底に住む魔女だと、私には分かった。

 魔女は願いを叶える代償に、その者が持つ美しいものを要求する。

 人魚姫は声だった。

 人魚姫の姉は髪を差し出した。

 私の前に現れた吸血鬼は――。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 5年前。まだ私にも余裕があったのだ。

 新宿駅の地下通路で、仕事で取引先に向かう途中で、足を止めるレベルには。


「すいません、靖国通りに行きたいのですが、どなたか道を教えて下さい」


 外見が外国人だけど、流暢りゅうちょうな日本語で助けを求める異性を助けるくらいには。


「あー、方向が逆ですよ。この出口を出て、こう行って」


 サファイヤよりも、空や海の青さよりも高く澄んだ青い瞳を、間近で観察したいと思える程度には。


「助けりました。お礼をしたいのですが、お茶でも――」


 多分、そこで応じることが、彼にとっての日常だったのだろう。

 だけど、私の日常は違うのだ。美しい青い瞳を見ることが出来て、私はそこで満足し興味を失った。


「ごめんなさい、仕事があるのでこれで」


 足早で立ち去ろうとした時、ガシっと肩を掴まれた。

 驚いた私は振り返り、私の肩を掴んだ青年も自分の行動を驚いているようだった。


「オレの名前は、門倉翔真です。あなたの名前は?」

「……お礼だったら、またこんど」


 めんどくさい。と思ってしまい、その感情が私の顔に出たのか、門倉と名乗った青年は美しい顔を翳らせる。ますますめんどくさいと、そのまま立ち去ってしまったから彼は私に執着した。


「よかった。また会えた」


 その数日後に、彼は偶然を装う形で再会して。


「どうしても、お礼がしたいんです。一度、お宅にお邪魔させてもいいですか?」

「……ずいぶん、流暢な日本語で話しますね」

「オレはこれでも、日本生まれの日本育ちです。今月に親の都合で東京ここに引っ越したんだけど、建物も人もたくさんあって右も左も分からなくて」

「ふーん」


 そんな話を鵜呑みに出来るほど、平和に暮らしていたわけではない。

 彼の半生を半分ぐらい聞き流して、警戒心とめんどくさい感情で彼を家に招き入れた。


 最悪、現状を変えられるのなら、殺されてもよかった。


 この青い瞳に、自分が映るのなら。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 カレノネガイガカナッタネ。


 暗闇の中で振り向いた魔女が、そう言って私を嘲笑う。

 魔女は私の顔をしており、死んだ魚のようなまなこに私を映す。

 上下逆の奇妙な鏡合わせの状態になって、私は私自身の闇を覗いている。


 ワタシノネガイモカナッタネ。


 願い。まさしくそうだ。他人の顔色や言動の裏側を読み取って生きてきた私にとって、翔真くんの表情の向こうに、寂しさが潜んでいることぐらいわかっていた。わかっているから、自分の都合の良いように彼を手のひらで転がして懐かせた。

 彼が私の奸計かんけいに気づかなかったのは、彼を利用して他人を害したり、自分の状況を改善しようとすることも、求めることもしなかったからだろう。だって、彼の青い瞳以外、彼に対しても自分に対しても、興味も関心も持てなかったから。


 そうこうしているうちに五年が経過して、私が瀕死となって彼は焦り、自分の願いを明確に示した。


――ひとりにしないで、と。


 代償は彼自身であり、私は願いを聞き入れて青い瞳を手に入れた。

 けれど知っている。わかっている。

 願いと望みは別であり、魔女のように願いを聞き入れた私が、彼の望みを叶えるかは別の問題だと。

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