さいごのひとくち

たってぃ/増森海晶

さいごに彼女が感じた味は――

 恋人のあかねはケーキのいちごを最後に食べる。

 料理を味わうのは大切なことだが、最後に味わうのが【好きな味】であることが肝心らしい。


 ショートケーキの苺。

 中華丼のうずら卵。

 パフェのさくらんぼ。

 ラーメンのチャーシュー。

 ファミレスのハンバーグに出てくる付け合わせの、ソースをたっぷり吸ったフライドポテト。

 寿司に至ってはシャリとネタを分離させる徹底ぶりだ。


 食べることが好きであり、こだわりを持って生きている彼女のことが、僕は本当に


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 数年後。


 ホスピスの一室で、あかねはぐったりと横たえていた。

 ニット帽をかぶり、死相が出ている白い顔には透明な諦観が漂っている。

 歳が若い分、がんの転移がはやく、倒れた時には手の施しようがなかった。


「あなた、お腹がすいたわ」


 空腹を訴えるあかねに、僕は彼女を手に取って「なにが食べたいんだい?」と、なるべく優しくたずねる。


 この数年、本当にいろいろあった。

 結婚して、子供を流産して、両親の介護があって――。


「そうね、キスして」

「…………そうか」


 あまりにも軽くなった、人の上体を起こして唇を重ねる。

 ぬるりとあかねの舌が入ってきて、弱々しく歯列をなぞると、やがて力尽きたように唇が離れた。


「……ごちそうさま」


 そう言って満足げに目を閉じるあかね。

 これが彼女の最後さいごであり最期さいご一口ひとくち

 キスの味を餞別せんべつに、あかねは死んだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 半年後。


「ちょっと、どういうことよっ! ねぇっ! 聞いてるのっ!!!」


 恋人のミキがヒステリックに喚いて、シャツをめくり、肌と臨月の腹を露出させた。

 白い肌に浮かび上がる不気味な赤い模様は、僕と僕の家族にもあらわれている症状。

 最初は口の周りに小さいツブが現われた。

 当初はニキビだと勘違いしたしこりは、一旦消えた。時期的にあかねの葬式でバタバタしていたから、ストレスが原因だと特に気にも留めなかったのだが。それが大きな間違いだった。


「あの女がやったのよ! わたしたちに復讐しているんだわ」

「くそっ! だとしたら、とんだ恥だっ! よりにもよって【梅毒ばいどく】に感染するなんてっ!!!」


 体の不自由な両親が身をよじり、居間にいる僕たちを汚い物を見る目で睨む。

 だってしょうがないじゃない、妻のあかねよりもミキのことを好きになってしまったんだもの。バレないように気を付けていたんだけど、こんな事態を招いたのだとしたら。


 あかねは僕の浮気に気付いて。

 あかねに介護されておきながら、僕の浮気相手を気に入っていた義理の両親を見限って。

 流産させるまで嫌がらせを繰り返していたミキに復讐するために。


――梅毒に感染した。


 あかねが入院していたホスピスは、総合病院に併設されてある。

 梅毒患者を探すなんてたやすいことだろう。

 そして僕とキスをして梅毒をうつし、僕と生活を共にしている両親や、妊娠していたミキとお腹の赤ん坊にまで感染が及んだ。


 梅毒の感染力はすさまじく、患者の使ったコップやトイレでも感染すると言われている。

 もしかしたら、僕たちは自分たちが思っている以上に、多くの人間を感染させている可能性もあるのだが、今はそれどころではない。


 昔と違って今は治療法がある。

 最近は梅毒患者も増えているらしいから、いくらでも言い逃れが出来るはずだ。

 そうだ、僕たちはなんとかなる。なんとかするんだ。


「ねぇっ、おなかの赤ちゃんどうするのっ!!! あなたの子なのよ!?」


 なじるミキの声に強い苛立ちを覚えた。中絶が許される期間はとっくに経過している。赤ん坊を諦めるためには無理やりにでも流産させるしかないだろう。

 そう、あかねの赤ん坊を流産させた時のように。


「うるさいなぁ。赤ん坊も感染しているんだろ? 殺すしかないじゃないかっ!!!」


 うっかり感情的に口走ってしまい、後悔した瞬間だった。

 いつの間にかミキの手に包丁が握られて。


「ひどい! ひどいわっ、あなたが、死んじゃえええええっ!!!」


――ザシュ。


 こうして、僕は殺された。

 殺された瞬間、いまさら気づいた。

 あかねが味わったキスの味は、決して愛情からくる甘いものではなく、復讐が叶うと確信した【勝利の味】だったのだと。


【了】

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