第35話 藤波少年
― 第三章 藤波と翔優 ―
藤波要芽と橘莉音との同棲契約は、約一週間で終わった。
橘が部屋を出たその日の夜に、要芽は家政婦の:池上翔優(いけがみしょうゆう)に電話をした。
「ああ、休み中すまないね。家事をお願いしていたバイト君が今日で終わりになったんだ。大分予定より早いけど、戻れるかな?」
きっとすぐにでも帰って来るだろう。翔優が、この一ヶ月の休みを有意義に過ごせているとは思えない、と要芽はたかを括っていた。案の定、翔優は電話をして一時間後にマンションに来た。
「お暇をとらせていただき、ありがとうございました」
お辞儀をした翔優の薄茶色い長い前髪が目元にかかる。陰気臭くなるからと、まめに切るように言っているが、伸びやすい前髪を翔優は放置しがちだった。
「給料そのままで、休みが短くなったんだから、文句くらい言ったらどうなんだい」
「ここでのことは、仕事と思っていないので」
だろうな。翔優は僕のことが好きなのだ。だから僕の世話は仕事ではない。
要芽はこの十年の変わらぬ関係を改めて言葉にした。
♢♢♢
要芽が中一の時、叔父の藤波獅堂が翔優を連れてきた。彼に勉強を教えてくれという。翔優は小五で使用人の池上夫婦の息子だった。勉強が苦手で、授業についていけないらしい。
小学生の内容で勉強が苦手ってなんだよ、覚えるか、パズルみたいなものじゃないか、と要芽は思った。
連れてきた獅堂の横に立つ翔優は、生気のない顔をしていた。目に光がなく、口が僅かに開いている。丸顔で、色白で細い。身だしなみは親がきちんとさせていたが、気力を感じないせいかどこか不潔に感じさせた。
学校の教材がテーブルに広げられた。獅堂は要芽の返事を聞かないまま、さっさと部屋を出ていってしまった。さすがの要芽も、目の前の人間を無視するほどにはまだ図太くなかった。仕方なく勉強に付き合う。苦手だというところを教えてみると、確かに何もわかっていなかった。対人に障害があるのか学習に障害があるのか、と、要芽は思った。
最初から大して興味もなかったが、要芽はいよいよ面倒になって教科書を渡し、自分で読んで解くように言った。すると、翔優はじっと教科書を眺め始めた。想定の三倍の時間をかけた後、翔優は問題を解き始めた。スラスラ解けている。
「なんで人に教わると、わからないんだ?」
翔優は鉛筆を置き、膝に手を乗せてから答えた。
「聞きながら理解しようとすると、わからないんです。人の声が音楽みたいに流れて、何を言っていたかが、わかりません」
ロボットみたいな応答だが、会話はできている。一方的な長い説明を聞くのがダメなだけかもしれない。歌のメロディはわかるが歌詞がわからない、みたいなものだろうか。
「だとすれば、学校の授業形式は君には最悪というわけだ」
「……気づいたら、先生が次の話をしていたり、勉強じゃない話をしていたりして、何の話をしていたか、わからなくなるんです」
「なるほどね。そもそも、教師の話はつまらないし、価値がないから聞かなくていいよ。さらに言えば、教科書を読んでわかるなら、教師は要らないということだ。良かったな、学校にわざわざ行く必要がなくて」
「……学校に……行かなくて、いいんですか?」
初めて翔優の目に光が差したように見えた。
「自力で勉強できるなら、行かなくていいんじゃないのか? 自分が一時間でできることを、学校では何時間も何日もかける。そりゃ、できるものもできるようにならないさ」
翔優は、口を半開きにして、ボーッとした顔をしていた。学校でもこんな間の抜けた顔をしているなら、もしかして友だちもいないかもしれない。人間が、異常を感じる人間をつまはじきにするのは当たり前のことだ。
「学校は楽しいのか?」
「……いえ。僕がバカなので、先生には怒られるし、友達も、僕が何か言うと、笑ってきます。なんで、笑われているのか、わかりません」
翔優は、ただそう言った。
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