第22話 同棲バイト
ある日、いつも通り、開店前に掃除をしていると、急に眩暈がした。
モップの柄を支えにしつつ、その場に座り込んだ。
そこに、藤波が店に入ってきた。
「橘君……?大丈夫かい?」
坂上は買い出して不在だった。
「ちょっと……眩暈がして……。」
藤波は橘を抱き寄せて、近くのソファに移動させ、横に寝かせた。
首元のボタンを外し、楽になるようにしてくれる。
「流しを借りるよ。」
藤波は水を持ってきた。
少し落ち着いた橘は、藤波から水をもらい口をつけた。
「……ありがとうございます。」
「僕のような不健康の代表みたいな奴ならまだしも、君の立派な体格で眩暈なんて、無理をしすぎなんじゃないかい?」
「……そうですね、なかなか休みがとれなくて……。」
橘は、片親で経済的に余裕がないことを話した。
「へぇ。健気なものだね。」
「自分がもっと器用な人間なら良かったんですが……。」
「……もし君が、ただ夢を叶えるだけならもっと簡単な道もあったんじゃないかな?」
「え?」
「人生は意外と長いからね。今が思い通りでなくても、いつか希望が叶うときもあるかもしれない。なぜ、生き急ぐんだい?」
それは……
那央のためだ。
ちょっと前なら、元カノのためでもあった。
温かい家庭に憧れがあって、早く落ち着きたいのだ。
ぼんやりとそう思っていると、藤波が言った。
「良かったら、僕の仕事を手伝わないかい?お給料ははずむよ。」
「藤波さんのお仕事……って……?」
橘は座って聞こうと上体をする起こそうとしたが、藤波は無言で橘の肩を押さえ、そのまま寝かせてくれた。
「この間、男色の観察にここに来ていると言ったよね?なかなか、よい人物に出会えてなくて困っていたんだ。そこに君のような色男が現れた。君をモデルに小説を書きたいんだ。」
「私を……小説に?そんな面白い人生じゃないですよ。」
「別にノンフィクションが書きたいんじゃない。君が何を考え、何を感じているかを知りたいんだ。」
坂上みたいに、取材を受けるのだろうか。
「はあ……私でよければ……。」
「そうか。君はイイ人だね。こちらの希望としては、住み込みで家事をしてもらいつつ、取材をさせて欲しいんだ。住居費、暖房光熱費はこちらもち。他に給料も渡す。取材時間のために少しアルバイトは減らしてもらうが、自分の自由時間もとれるよ。」
そして藤波は給料の金額を口にした。
大分ゆとりのある額で、橘にはかなり魅力的だった。
「……家事と取材だけでそんなにいただけるんですか……?」
「ああ。ただし、一つ約束して欲しいことがある。」
「なんでしょう?」
「取材に対しては、誠実であってほしい。嘘、偽りなく。今認識していることよりも、もっともっと奥の、闇のようなところを見せてほしいんだ。それがなければ、書く意味すらない。」
小説のことはわからないが、藤波の真剣さは感じた。
「……自分に務まるかわからないのですが……藤波さんが僕でよければ……。」
思わずすぐ引き受ける返事をしてしまった。
金額が良かったことがそうさせたのだが、それと同時に那央のことが思い浮かんだ。
「君は本当にイイ人だね。」
藤波は笑った。
藤波が微笑以外で笑うのを初めて見た。
「じゃあ詳しいことは、店が始まってからで。僕は少しまた街を眺めて来るよ。」
そう言って、藤波は店を出た。
橘は、ぼんやりと天井を見つめた。
那央と、早く恋人らしい生活がしたいのだ。
そんな時の藤波の提案だ。
後先考えず、乗ってしまった。
普通は怪しむべきだろう。
那央……。
自分のために泣いてくれて、家事をしてくれて応援してくれる。
食べてしまいたいくらい可愛い。
自分でも自分がバカだなと思う。
藤波の提案は、受けて正解なんだ。
俺は、那央を大切にしたい。
そう思いながら橘は起き上がった。
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