第5話 蕾を手折ったαたち
「随分と機嫌がいいな」
「兄上こそ」
「ようやく運命の番が見つかったのだ。毎日が楽しくてしょうがない」
「四十にもなったおじさんが有頂天になるなんて、みっともないですよ」
シュクラの言葉に皇帝の黒目がすっと細くなる。
「三十のΩに鼻の下が伸びっぱなしの若輩者はみっともなくないのか?」
「キーシュさんはそんな俺も好きだと言ってくれるのでかまいません」
「わたしも同じだ。たしかに歳は離れているが、気持ちはあれと同じだと思っている」
(二十歳も歳が違うのに同じわけないだろう)
そう思ったものの、これ以上何か言うのは得策ではないとわかっている。シュクラはにこっと笑うだけで口を閉じた。
皇宮の奥にある皇帝の私室にシュクラが呼ばれたのは少し前のことだ。何事かと思って来てみれば、延々と惚気を聞かされ続けている。内心「面倒だなぁ」とため息をついていると、そんなシュクラの気持ちなどお見通しらしい皇帝が「本題はここからだ」と口にした。
「ルルアーナがキーシュに会いたがっている。連れて来い」
ルルアーナというのは、キーシュが蕾宮にいたときにやって来た南の島国のΩだ。皇帝がルルアーナを見かけたのはキーシュが去る少し前で、キーシュが下賜されてからあっという間に寵妃になった。
(俺がキーシュさんの下賜を願い出るたびに渋っていたのに)
それなのに、ルルアーナの存在を知った途端に下賜の許可が下りた。遠目で見ただけだから運命の番と気づいたわけではなかっただろう。おそらく目映い金髪に惹かれただけだったに違いない。「自分勝手だな」と思ったものの、賢いシュクラはそんな気持ちなどおくびにも出さず粛々と受け入れる準備を進め現在に至る。
(そういえばキーシュさん、ルルアーナとかいうΩのことをやけに気にしていたな)
もし会えるなら喜ぶだろう。だからといって、すぐに「はい、わかりました」とは答えられない。
(運命の番が金髪ということは、キーシュさんにも興味を持つかもしれない)
皇帝は好色ではないが、昔からなぜか金髪が好きだった。運命の番という絆を誰よりも大事に考えている皇帝であっても直接会えば心変わりをするかもしれない。
(本当は侍女や侍従にも見せなくないのに)
だから屋敷に迎える日も部屋のそばまで輿に乗せたままにした。そんな愛しい人を皇帝に見せることにシュクラは大きな抵抗を感じていた。
(兄上に目を付けられては、いまの俺では敵わない)
うなじを噛んでいても、噛んだαより上位のαに上書きされれば奪われる可能性がある。
目の前にいるのは兄である前に帝国一の上位αだ。半分同じ血が流れているものの、年若いシュクラが皇帝に勝てる見込みはほとんどない。物心ついたときからそのことに気づいていたシュクラは、だからこそ真っ先に「あの人は俺の運命の番です」と訴えキーシュがお手つきされないようにした。
幸い、皇帝は運命の番を心から信じるαだった。だからシュクラの言葉に耳を傾けた。皇帝自身も長く運命の番を求めていたからか、これまで大輪宮には二人しか妃がおらず子も作っていない。それでも開花宮に十数人のΩがいるのは強いα性を抑えきれなかった結果だろう。
(兄上の餌食になる前にキーシュさんを手に入れられてよかった)
そして、抗えないほどのαの本能に耐え抜いた自分を大いに褒めた。
皇帝を見てきたシュクラは「ああはなるまい」と暴れ狂うα性に耐え続けた。身綺麗なままキーシュと結ばれたいと強く願ってのことだった。そうまでして手に入れたキーシュのことを考えると、たとえ相手が皇帝であっても奪われてなるものかとαの本能が牙を剥く。
思わず黒目に力が入るシュクラを、皇帝が涼しい顔で見返した。
「案ずるな。ルルを手に入れたいま、わたしがキーシュに興味を示すことはない。それはおまえもよくわかっているはずだ」
「たしかに運命の番以外に惹かれるΩはいませんが」
「わかっているなら心配する必要はあるまい?」
皇帝の言うことはもっともだ。それならキーシュの心配事を減らすためにもルルアーナに会わせてやるべきだろうか。それでもためらうシュクラに、皇帝が小さなため息をついた。
「おまえが真に心配すべきは、むしろ我が妃たちだろうな」
「そっちですか」
「正妃は可愛いΩを可愛がることを生き甲斐にしている。第二夫人も正妃が愛でるΩを可愛がる。ルルアーナも日々その餌食になっていたゆえ、急いで大輪宮から我が部屋に移したくらいだ」
「そんな面倒なところにキーシュさんを連れて行くと思いますか?」
「おまえの妃となったキーシュが大輪宮に挨拶をしに行かないわけにはいかぬだろう?」
腹違いとはいえ皇帝の弟の妃が皇宮に来るなら、まず皇帝の妃たちに挨拶するのが通例だ。しかもキーシュは元々Ω宮にいた身なのだから挨拶しなければ礼儀に反する。
(……あの方に挨拶か)
シュクラは過去に三度正妃に会ったことがある。たしかに華奢な見た目に華やかな容姿はΩらしいが、中身はαのように剛胆だったなと眉が寄った。第二夫人はお披露目で見かけただけだが、正妃と姉妹のように仲がいいということは好みや考え方が似ているということなのだろう。
(第二夫人はわからないけど、正妃は間違いなくキーシュさんを気に入るだろうなぁ)
一見するとキーシュに可愛らしいところはない。体も大きめで、性格もあってかあまりΩらしくもない。祖国では騎士見習いとして働いていたという話だから、その気質が抜けないのだろう。
そういう部分が蕾宮のΩたちに慕われる一因なのだろうとシュクラは思っていた。誰もが兄のように慕い、中には淡い恋心を抱くΩもいたに違いない。そんなキーシュもシュクラから見れば何もかもが可愛らしかった。
(まず、初心なところが可愛い。真面目で正直なところも可愛い。最近ではそこにΩらしい雰囲気も見え隠れするせいか、たまらなく可愛くて下半身が暴走しそうになる)
そんなキーシュを、あの正妃が見逃すはずがない。Ω同士だとわかっているのに、シュクラは正妃に対してとてつもない警戒心を抱かざるを得なかった。
(……やっぱり連れて来るのはやめようかな)
そう思っていることを感じ取ったのか、皇帝が涼しい顔で口を開く。
「今回断ったとしても連れて来るまで何度でも呼び出すぞ」
「脅しですか」
「皇帝の命令を脅しと言うか。まったく恐れを知らない男だな」
「自分の兄を恐れっぱなしの弟なんて、αにはいませんよ」
「わかった、わかった。キーシュには我が妃から褒美をやるということにするゆえ、ルルアーナの元に直接連れて来い。正妃たちへの挨拶は、また後日にしろと申し伝えておく」
「後日」ということは、先延ばしされるだけで確実にその日がやって来るということだ。「ルルアーナに会ったのだから、次はこちらへいらっしゃい」と直接声をかけられるに違いない。
(それはそれで面倒くさいな)
そもそも皇帝が寵妃を後宮から私室に避難させるなどあり得ない。そのくらい正妃たちが新しい寵妃を構い倒したということだ。想像するだけでうんざりするが、シュクラはキーシュが喜ぶ顔と自分の心労を天秤に掛けて思案した。
(……やっぱりキーシュさんの笑顔のほうが大事かな)
正妃に呼ばれることになったらそのとき考えればいい。面倒なことになりそうだが、キーシュなら正妃の猛攻にも耐えられそうな気がする。
(俺のキーシュさんは優しいだけじゃなく芯の強い人だから)
金髪をさらりと揺らしながら緑眼を細めて微笑む姿を思い出し、シュクラの体がわずかに熱を帯びる。
「わかりました、連れて来ます」
「そうか! ルルも喜ぶ」
満面の笑みを浮かべる皇帝に「だから四十のおじさんが鼻の下伸ばすなって」と内心毒づいた。
(これで帝国最強のαなんてな)
思わず呆れてしまったが、目の前のαはたしかに誰よりも優れた見た目をしていた。年齢を感じさせない若々しさがあり、一際立派な体格をしている。なによりどんなαも従わざるを得ない気配を常に放っていた。
そんな兄にシュクラはずっと憧れていた。こういうαになりたいと思いながら、同時にいつか超えたいとも思い続けていた。
(もしキーシュさんが手を付けられていたら、果たして兄上に勝てただろうか)
これまで何度か想像してみたものの、そのたびにゾッとした。
(それでも、いつか兄上を超えてみせる)
シュクラは別に皇帝になりたいわけではない。ただ、すぐそばに絶対的な存在がいることが許せなかった。怯えることも平伏することも納得できないと本能が訴えている。
そういった気概こそが上位αである証なのだが、シュクラはまだそのことに気づいていない。そんなシュクラのことを、血を分けた兄として皇帝は頼もしく感じていた。
屋敷に帰ったシュクラは、さっそくルルアーナに会うことになったとキーシュに伝えた。すると「僕もずっと気になってたんだ」と緑眼が優しく微笑む。
「周囲に馴染む前に僕がいなくなって、それからすぐに大輪宮に入るって聞いたから心配してたんだ」
「キーシュさんは相変わらず優しいですね」
「変な意味で気にしてたんじゃないからな? ほら、あの子みたいな容姿は蕾宮でも珍しいだろう? だからほかの子たちと馴染めないみたいでさ。その点僕は同じ金髪だし、だから僕には心を開いてくれたんじゃないかなと思って」
「僕も弟ができたみたいで嬉しかったんだ」と笑うキーシュに、シュクラは「お兄ちゃんっぽいキーシュさんも可愛いなぁ」と微笑ましくなった。同時に「本当は俺だけを見てほしいんだけど」と仄暗い気持ちもわき上がる。
「優しいキーシュさんも大好きですよ」
「でも、俺だけを見てくださいね」と内心付け足しながら抱きしめると、キーシュが少し照れたような声で「僕も、シュクラのこと大好きだよ」と言って抱きしめ返した。それだけでシュクラの心は澄んだ青空のように晴れ渡るのだった。
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