三章 私を連れてって

一 母ではない

 仕事場からの帰り、由美が私の腕を抱きしめたまま、

「あそこに女の人がうずくまってる」

 と言った。六月上旬で蛍が出る時期だった。


 ここは由美の家がある長野県だ。仕事場まで歩いて五分。途中には田や蓮池がある。この蓮池は蛍の生息地だ。蛍が発生する時期になると、蛍を見る観光客や地元の人があとを絶たない。しかし、蛍が活動するのは日没から二時間ないしは三時間ほどで、私たちが帰宅する午後十時頃には蛍の光は見えないのが常だ。

 この時間に女が蓮池の縁に居るのは不自然だった。しかもその女は蓮池の縁にうずくまっている。蛍を見ているのではなさそうだった。



 帰宅後、その夜は蓮池にうずくまっていた人の事を忘れ、いつものように午後十二時に布団に入った。

「ねえ、あ・い・し・て・ね・・・」

 由美に応じて私は、

「おいで・・」

 由美を抱き寄せた。すると、由美が、

「母がいる・・・」

 と言って私に抱きついた。心なしか震えている。


 由美から、母の由美子は心不全で亡くなったと聞いている。その事が何を意味するか、由美子本人は知っていたが、私は由美を恐がらせてはいけないと思い、由美子の死因を話題にしなかった。だが、こうして由美子が現われるのは妙だった。由美子と由美の精神と意識は一体のはずだ。あえて由美子がこの世に出てくる必要はない。


「由美子じゃない。由美子は由美の中にいる・・・」

 私は由美に囁くと由美を抱きしめたまま身を起こした。

「誰なの?母を真似るなんて・・・」

 由美は直ちに私の言葉を理解した。私に抱きついたまま母の姿の女を見つめている。すでに心はおちついていた。


「あなたたちが依頼を聞いてくださると伺いましたので、あの蓮池で夕方から待っていました。お母様の姿なら警戒されずに依頼を聞いてくださると思って、ここに現われたのです」

 女は言葉穏やかだ。教養に溢れた印象だ。


「何が望みですか?」

 私は生きた依頼人に尋ねるように質問した。由美は私に抱きついたままだ。


「私を送って欲しいの」

 由美子の姿の女はそう言って微笑んだ。

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