そこに女神はもういない

加加阿 葵

そこに女神はもういない

 人間は海水に涙を混ぜる。



 輝く海。

 その青はまるで宝石のように輝き、陽光が波立つ水面に反射しユラユラと踊る。


 紺碧の海。

 その波は深い青さを帯び、儚さが空気中に広がり悲嘆の歌を奏でる。


 穏やかな海。

 その水面は穏やかな鏡のように滑らかで、波たちもなく海の静寂が広がっている。


 人の心もまた海に似る。


 様々な表情を見せるその海には、とある噂があった。

 その海に向かって辛い事、悲しい事を打ち明けると女神が手を差し伸べてくれると。


 その噂を聞いた者の多くがその海へ赴き、各々の想いを海へ溶かした。

 どうか、どうか女神に届けと。


 家族の病気を治してほしい。喧嘩した友達と仲直りしたいなどという想いに女神は手を差し伸べ続ける。


 しかし人間は愚かな生き物である。


 時の流れと共に噂は形を変え、なんでも願いが叶う海と言われるようになった。

 お金持ちになりたい。死んでほしい人がいる。会社が潰れてほしい。

 人のあさましい欲望が海に沈む。


 何日も、何年も。


 長い年月、途絶えることのなく海に沈んだ黒い想いは海の表情を変えた。


 


 かつては様々な表情を見せていた海も今やその水面は灰色に濁り、波は尖った刃のように岩礁に打ち付ける。


 太陽の光も届かぬ暗い深海。


 その目に宿るは絶望の色。

 人間を憎みし憤怒の色。


 数多の絶望に翼を灼かれ、深海に沈みしかつて神と呼ばれた者。

 人間への絶望は荒れ狂う波濤となりて、人間の世界を襲う。


 かつて人間たちに差し伸べてきた両手が、今や人間を襲う刃となる。



 海の水がしょっぱいのは、人間が涙をこぼしたから。

 海が荒れるのは、人間があまりにも愚かだから。


 人の心が海に似るのではない。

 海が人の心に似るのだ。


 人間の世界を襲うかつて女神だった者の怒りの奔流。


 人間達は暗雲立ち込める天に向かって、懺悔し、救いを願う。

 祈るような言葉があちこちから聞こえる。

 細く頼りない希望をそれでも信じたいと天を仰ぐ。



 女神は人間の愚かさに絶望し翼を灼かれ深海に沈んだのだ。

 天を仰ごうがそこにはもう女神はいない。

 そこに在るのは太陽の光をも遮る暗雲のみ。



 自分たちが沈めた黒い想いにより、世界は光も通さぬ暗闇に染まってしまった。

 迫りくる濁流の中、人間たちはすぐに気づくだろう。


 すでにここは深海なのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そこに女神はもういない 加加阿 葵 @cacao_KK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ