幕間 2
善道のいる市役所へのおよそ穏やかではない訪問は、明日の朝九時に決定した。
それまでの間に強襲される可能性もなくはないので警戒態勢は解かれることはないが、それでも風花探偵事務所はリラックスしている。
ここに泊まることも少なくはない一子は、意識がある状態では最初の夜となるカコイに勝手を教えている最中だ。この中で唯一安心しきっている一子と同じく、目下最優先迎撃対象である柊を任されたカコイも表面上は平静である。
風花探偵事務所はぼたんと霖太郎の住居でもあるので、ここで一夜を明かすことは容易い。
「ここがお風呂だ。ぼたんちゃんが小さいのと霖太郎がデカイのとであたしたちには使いづらくなってるから、あとで一緒に入ろう」
「はい」
年齢的にも物腰的にもカコイが一子の姉のようになりつつあるが、そこは一子の性分だ。妙に面倒見がよく、この場面だけを切り取れば一子の方が姉のようだ。
面倒見がいいのは、普段は鋼音の世話をしているからだ。基本的に無気力無関心な彼は、一子にしてみれば世話の焼きがいがあるのだろう。
「ところでみんな、さっきは何を話してたんだろうな?」
「さて……。出灰さんの背が小さい、という話ではないでしょうか?」
「聞こえてるぞ戸張ぃ!」
「くすくす。失礼しました」
壁一枚隔てた向こうから、出灰が叫んだ。
カコイの声は存外よく響く。というのも、彼女が無意識に、常に発動している“戀熱生理”が、彼女の周りの空気を適度な具合に調整しているからだ。そのためカコイの近くというのは物理的に居心地がいい。マイナスイオンと名付けられた正体不明の快適物質などよりはずっと確かなものである。
「……否定の言葉はないんだな」
一子が呟く。
出灰の身長についての段落があったのは間違いないので、壁の向こうからは押し殺した笑いが沁みてくる。鋼音と霖太郎だろう。
なお、カコイは黒峰よりもまた少し背が高い。
「ま、みんないいやつだから、よろしくな」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「あぁ。で、そろそろご飯のはずなんだけど……」
キッチンに足を向けた二人を待ち構えていたのは、妖しげな実験場だった。
「黒峰先生! お湯を沸かすだけなんですよ⁉︎」
夕飯を作ると意気込んでいた風花と黒峰の両先生は、買って出た勢いのまま盛大に失敗していた。
四散するレトルトカレーのパウチと、人数分並べられた皿はまぁいいだろう。よくはないが、それが仕方ないと思えるほどの惨状が広がっている。
「お湯を沸かす⁉︎ お湯を沸かすってどうするんだった⁉︎」
「えぇ⁉︎」
「勝手がわからん!」
叫んだ黒峰は、奇妙な光を放つガスコンロを前に跪いた。
普段はアルコールランプとビーカーで熱湯を作り、コーヒーかカップラーメンを啜るだけの黒峰にとって、キッチンでレトルトカレーを温めるというのは困難を極める。
「コックを捻ればガスが出る……ガスに電池から取り出した火花状のエネルギーを与えて炎になる……? ガスはどのくらい残っている……消すときに有毒ガスに変異しないか? 熱は? パウチを煮沸するだけならいいじゃないかこんなもの……」
ブツブツと独り言を呟きながら、黒峰はただでさえ丸みを帯びつつもくびれの際立つ女性的な体を丸めていく。その異様な光景に圧倒されながらも、ぼたんは「そこまで折りたためるんだ……」と感嘆の声を上げた。
「すまない風花先生! 私の能力を……!」
「だからお湯を沸かすだけなんです! コックを捻って、様子を見ながら待つだけなんです!」
神経質で心配性な黒峰にふさわしい能力が彼女にはあるのだが、ぼたんの言うとおりここはお湯を沸かすだけなのだ。
「様子⁉︎ どんな様子だ⁉︎」
「黒峰先生? どうしたんですか?」
騒ぎを聞いてだらだらとやってきた男性陣。出灰が代表して声をかける。
「よく来た出灰! お前の“影素”でお湯を沸かせ!」
「はいはいわかりました、わかりました。あとでたっぷり沸かしますから。すみません風花先生、ウチの先生がお世話になりました」
「出灰ァー!」
「はいはいはいはい、ちょっと寝てましょうね先生」
黒峰はどうも夜になると考えに考え、堂々巡りとなる癖がある。会議の時間がないというのも、黒峰の性癖によるところが大きい。最近慣れてきたのか、出灰の対応はクールだった。
「……嵐みたいだったな……」
キッチンの戸の上辺に顔を隠した霖太郎が呟く。百九〇ほどある身長の霖太郎が立っていると、ちょうど自動販売機が設置されている具合である。
……。
…………。
無事に完成した冷凍パスタ(解凍済み)で胃袋と食欲を満たした一同は、二十二時を回った夜空に釘付けになった。
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