鋼音と一子と  と

「一子」

「なんだよ」

「……その、大丈夫? なにかなかったか?」


 風花探偵事務所の窓から西日が差し込む。

 鋼音は過保護気味なところがある。およそ心の中に何もない鋼音にとって唯一の拠り所である彼女は、彼にとって唯一の守るべきものだ。この頃は黒峰研究所や風花探偵事務所などもそうなりつつあるが、それについて自覚はない。


「……いや、ないけど? なにかあったのか?」

「……どうってことはないけど、なんとなく。ほら、最近寒いし」

「……ふふっ、大丈夫」

 やや歯切れの悪い鋼音だが、彼なりに一子を気遣ってのことだ。一子を、彼女自身を取り巻く邪悪に触れさせるわけにはいかない――そんな迂遠な愛情を感じ取った一子もまた、彼に自分なりの親愛を注ぐ。


「そうか。それならいいんだけど」

「……うん」

「……」

「……」


 二人にとって心地よい沈黙が流れるが、ここは風花探偵事務所だ。昼間の真田研究所の件で、黒峰を交えて対策会議をすることになっている。更には先日捕獲した戸張カコイも事情聴取ということで訪れているため、相当な人数がここに集まっている。

 ほぼ全員が会議の準備のため別室に移動してはいるものの、戸張カコイだけは燃えるような視線を二人に浴びせていた。


「そうだ一子、魚の話をしてもいいかな」

「え、魚? なんで?」

 周囲の配慮や嫉妬は露知らず、二人は話に没頭する。


「魚の話を用意したんだ」

 わざわざ用意しなくてもいいのに。一子は、そんな鋼音の不器用さに頬を赤くした。

「そうだ鋼音、鯱! カッコいいよな、鯱!」

「……」

 鯱は哺乳類である。魚ではない。彼らが魚であれば、あのような高度な知能もなく強靭な骨格も得られず、大海最強種とはなれなかっただろう。


 それはさておきとして。


「ごめん一子……ラッコの話ならできるんだけど……」

 なお、ラッコも哺乳類である。ポケットらしきものは袋ではなく、毛皮のたるみなのだ。


「鯱がいい!」

「鯱がいい?」

「あぁ!」

「鯱かぁ……」

 鯱についてあまり喋ることのない鋼音は、腕を組んで唸る。

「鯱といえば、実は魚ではなく哺乳類だ、とかは有名ですよねぇ」

「哺乳類⁉︎」

「えっ⁉︎」

「ラッコも魚ではないですね」

「海にいるのは魚なんじゃないのか?」

「いや鋼音、それはさすがに……」

「バカなんですか?」

 鋼音に睨まれ、カコイはやん、と照れた。


「そもそもお前、何してんだよ」

 仮にも、文字通り仮にも一子を殺した女だ。鋼音は警戒を露わにする。


「何、って……一子ちゃんとはお友達ですもの。何か問題でも?」

 しゃなり、と首を傾げるカコイ。一子も友達と言われて満更でもない様子で、二人の間にわだかまりはないらしい。


「……、時速六〇キロから七〇キロで泳ぐ」

「あら。では……クジラを狩る際は浮上や呼吸、潜行を妨げるためクジラの上下に一頭ずつ構える、などはどうでしょう」

「あの白いところは実は目じゃない」

「ふふっ。コミュニケーションやエコーロケーションのほか、獲物に向けて三半規管を麻痺させる音波も放つそうですよ」

「ぐ……」

「好物はキングサーモンとクジラの舌や口元です。わたくしも鋼音さまの口元には興味がありますよ」

「……参りました」

「では、遠慮なくいただきます」

 鋼音の降参を受けて、カコイは一子を抱き寄せた。わー、とおどけながら応える一子を見て、鋼音は少しだけ肩の力を抜く。

 指で優しく髪を梳る様子は姉妹のようだった。


「今日のところは負けを認める。……それで、何のつもりだ?」

「いまのわたくしには一子ちゃんを襲う理由がありませんからね。申し上げた通り、友達です」

「友達か……」

「はい」

 自分のいない、今日の昼の内に打ち解けたのだろう。一子とカコイの間に確執のようなものは感じられない。何よりも、カコイの打算のない言葉に鋼音は安心する。


「…………善道について、知っていることを全部教えてくれ」

「その件については申し訳ないことをしました。ごめんなさい」

 深々と頭を下げるその動作は、潔かった。


「謝るなら教えてくれ。善道は何のために一子を狙った? なぜ一子のことを知っている?」

 赤座一子の能力は“願いを叶える”ことだ。かつてその能力ゆえに幽閉され、恩人を喪った一子は、しばらく前まで心を閉ざしていた。鋼音が彼女と出会ってからはその能力をかぎつけたアウターや研究所、ターミナルからの追手と度々衝突し、これを退けてきた。ぼたんの特殊探偵のコネなどにより、今となっては一子個人に辿り着くことは困難を極める。


 その万能に、善道はあと一手というところまで近づいているのだ。鋼音は、これを打ち倒さなければならない――一子のために。


「その前に、鋼音さまも昨日のことを謝ってください。わたくし、非常に傷つきました」

「なんで僕が」

 やり過ぎなきらいがあったとはいえ、鋼音は被害者だ。やり過ぎてしまったのもカコイにはそれくらいやらなければならなかったため。鋼音はこれを正当化する。


「……はぁ。わかりました。それでは、わたくしも小言の一つや二つ、ぶつけさせていただきます」

 強かな女だな、と鋼音は辟易した。打たれても柳のように受け流し、あまつさえそれを打ち返すのは正に戀熱生理を発現する精神性だ。

 一子を抱くカコイの手に、ぐっと力が篭る。これは大事なものを守る行為である。


「鋼音さまは、本当に一子ちゃんのために戦っているのですか?」


 いきなりわけのわからないことを言われて、鋼音は硬直する。


「…………どういうことだ」

「どうもこうもございません。同じ精神疾患系として、疑問に思ったのです。確かに精神疾患系の能力は他の系統に比べて性質が変化しやすいものです。なにせ、心の在り方……歪みなのですから」

「それは……そうだろう」

「しかし、わたくしの知るハガネさまの“Sicks”と鋼音さまの“ディアワン”は変化というにはあまりにも遠すぎる。まるで別物のような、書き換えられたかのような、そのように感じました」


「…………」

 後頭部がずきずきと痛む。


「その能力は、本当に鋼音さまのものですか? その気持ちは……一子ちゃんを守りたいというのは本当ですか?」

 鋼音は何も答えない。カコイによってノックされた扉の向こうに、答えを持った自分がいないからだ。


「……風花先生から鋼音さまのことについては概ね伺っておりますし、わたくしはそもそも鋼音さまのストーカーのようなものです。なんでも知っているのですよ。あなたのことを、あなた以上に」

 背筋が凍る。鋼音はカコイが怖ろしくなった。ストーカーだったとかそういうことではなく、空っぽな自分を見透かされているような気がしたからだ。この女は、もぬけの殻だと知って扉を叩いている。


「そもそもがおかしいのですよ。誰かを守るための能力であるはずのディアワンが、鋼音さまを包む鎧だなんて。精神疾患系であるはずなのに、鎧などという形で現出するだなんて」

「…………」

「大和ちゃんの“繕燐光輪シング・ア・ベル”もわたくしの“戀熱生理ジュールモンスター”も、現象としては発生しますが、鋼音さまのそれは明らかに毛並みが違う。天啓系の竜胆くんの“ファング”はそもそもミサイルを作り出す能力ですが、鋼音さまのそれはこれとも毛色が違う。須藤くんの“空間規格スペースフォーミュラ”は……まぁ比較にならないので置いておくとして。誰かを守るため、という前提を取り払って見てみましょうか?」


 カコイの言葉は、鋼音が割って入ることを許さない。それは彼女が心の底から言葉を紡いでいるからだ。嘘で自分すら騙している鋼音には、肯定も否定もできない強い言葉である。


「“ディアワン”は本来、鋼音さま自身を守る能力なのです。どうです? これなら辻褄が合うでしょう。自分を守る延長としての鎧……そんな空っぽな能力は、鋼音さまにお似合いだと思います」


 空洞の鎧に空っぽな人間が収まるなど、なんと滑稽なことか。中身などなにもない、そんな愚かしいことを、しかしカコイは笑わない。


「つまり鋼音さまは、一子ちゃんを守るという建前で、自分を守る事実を覆い隠して戦っているのです。一子ちゃんのための鋼音さまでなければ、鋼音さまは本当になにもない人間に……獣になってしまう。だから、自分を保つために一子ちゃんの万難を排す。そのためなら一子ちゃんがどうなっても構わない。鋼音さまは、そういう人間なんです」


 自分がどんな表情をしているのか、鋼音はわからない。わかるはずもないだろう、なんの表情も浮かべていないのだから。洞、とした瞳に何を映しているのかも、自分ですらわからない。今まで偽ってきた代償とでもいうのだろうか。


「それでも、僕は……」

 力なく呟く。


 鋼音の意識は、仄暗く広い水たまりへと沈んでいく。彼の心象風景であるそこには、白い鎧――“ディアワン”が異物めいて佇んでいる。

 図星を突かれたからか、あるいは剥き身の急所を突かれたからか、鋼音の手は震えだした。自身を守るためではないか、とまでいわれた鎧の輪郭が顕れ、発現に伴う振動が部屋を上から下へ圧すプレッシャーとなる。

 その剣呑な雰囲気からではもちろんあるが、なによりも自分の与えた能力の発動を察知した一子は、悪夢から覚めるように起き上がった。その際カコイの顎に頭をぶつけてしまうが、“戀熱生理”によって、互いにダメージはない。


「それでいいじゃん」

 沈みかけた鋼音の意識は、そんな甘い声で引き戻された。


「……一子ちゃん……」

「あたしは……鋼音が満足ならそれでいいし、あたしが満足させてあげられるならそれ以上のことはないよ」

「はぁ……」

 敵わないな、とカコイは瞳を伏せた。


 白崎鋼音は利己的にだが、事実彼女を守っている。赤座一子もまた、その万能を傾けて彼に守られることを良しとしている。互いが互いを言い訳に自己肯定する共依存的な関係だが、カコイにはそれを否定できるだけのものがないのだ。


「……そういうことです、鋼音さま。努々、貴方自身のためにも一子ちゃんを悲しませないで下さい。昼間だってオロオロしていらっしゃったんですから」

「……あぁ。すまなかった」

「よろしい。それでは本題ですけれども、

「できたぞ! 改良型スタンプだ!」

 カコイの言葉を遮って、奥の部屋から黒峰が飛び出してきた。そのはしゃぎようと言ったらまるで少女のようだが、彼女の実年齢は三十にほど近い。


 その手に握られているのはプリントアウトされた研究資料のようだ。先の戦闘で回収したスタンプを解析したのだろう。


「黒峰先生、待って……ください! まだ戸張がいるんですから、情報漏洩はまずい!」

 続いて、助手としての仕事を全うしようとする出灰。暴走する黒峰を止めようとするが、彼女の勢いに完全に負けてしまっている。


「小さいことをいうな出灰。それに、戸張はさっきづけでウチの所属になった!」

「はぁ⁉︎ 何言ってんだコイツ!」

「小さいことをいうな! 小さいことをいうな!」

「何で三回言った!」

 止めるどころか勢いは加速し続ける。途端に騒がしくなる中で、鋼音、一子、カコイの三人の視線は出灰と黒峰の背丈に向いた。なるほど、僅かだが目で見える程度には、出灰の背は黒峰よりも低い。


「とにかく戸張さん。真田が遠寺姉妹に殺害されたため、君の身柄はウチで預かることになった。もちろん他の三人もだ」

「…………はぁ。……はい、よろしくお願いいたします」


 頭を下げるカコイに必要事項が羅列された書類を手渡した黒峰は、事務所の端にあるホワイトボードの前に陣取った。


「さて。集合だ! 状況が状況なので、できるだけ短く話させてくれ!」

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